Blog (Before- & Afterimages): Essaysアーカイブ

Essaysの最近のブログ記事

『UP』12月号に寄稿しました。連載「イメージの記憶」の第26回です。
書誌情報は
田中純「鳥人間の影──ジルベール・クラヴェル『自殺協会』」、『UP』470号(2011年12月号)、東京大学出版会、2011年、59〜65頁。

『自殺協会』では、古代エジプトの霊魂観を背景とするこうしたアルカイックなシンボリズム、中世ヨーロッパの「死の舞踏」の虚無的なグロテスク、そして、この協会が位置する建物のエレベーターや開頭手術に使われる歯車装置といった機械のモダニズムなどが奇妙なかたちで融合している。現代的な合理性が古代的な想像力によって幻想的に、しかし極度に乾いた筆致で歪曲された『自殺協会』の世界には、カフカが『審判』で描き出した裁判所の官僚機構や『流刑地にて』の処刑機械を思い起こさせるものがある。自殺協会のシステムそのものが、ひとつの「独身者の機械」(ミシェル・カルージュ)をなしている、と言ってもよい。そして、クラヴェルはこの機械を、死を変容させることで生き延びるためにこそ必要とした。(...中略...)

このように『自殺協会』においては、古代エジプトの死生観をはじめとする神秘主義的な形而上学と世界大戦を風刺したアイロニカルな舞台設定、シュルレアリスムを先取りする幻想性とカフカを思わせる謎めいた寓話性、イタリア語の背後にドイツ語を潜ませた多重言語による、非常に古風でありながら前衛的な文体、そして、デペロによる挿絵や口絵の機械人形たちが跋扈する悪夢のような異世界のヴィジョンといった種々様々な要素が相乗的な効果を上げている。この「独身者の機械」は、イタリア語への翻訳を通じて多声化するとともに、新たな「技師」デペロの参加によって、テクストに従属しない視覚的イメージという強力なダイナモを備えることになったのである。

fig01.jpg

都市を占う

高梨豊さんの写真集に解説を書きました。
書誌情報は
田中純「都市を占う」、高梨豊『IN'』、新宿書房、2011年、138〜141頁。
Jun Tanaka, Fortune-telling for Urban Cities. In: Yutaka Takanashi, IN'. Tokyo: Shinjuku Shobo, 2011, pp.142-144.

日本経済新聞夕刊(11月9日)で井上章一さんに書評していただきました。
平凡社の方が公開なさっている書評の画像です。

最後の一文、正確に意図を汲み取ってくださっている。拙著で問題にしたのは世紀転換期ヴィーンの「スタイル」──生と性、倫理と芸術を横断する──だったのだから、とくにロース/クラウスのスタイル=文体をどこかで意識していた。新書という雑誌に近い形式でなければ、そうはしなかったかもしれない。

その文体の特徴とは、ロースの創刊した雑誌名で言えば「他者(別のもの)」、つまり、異質性。ロースは「オーストリアへの西洋文化の導入のため」と言った。異質性をそれと知るためにはコンテクストの知識が必要だ。そもそも思想史は多領域の関係性をメタレベルで考察するものなのだから、そのために前提とされるコンテクストの理解も多重化する。しかし、いくつかの峰を越えて山を登った果てに見える風景──その地形──にこそ、思想史の醍醐味もまたあるというものだろう。
『教養学部報』にトポフィリ展についての文章を寄稿しました。書誌情報は
田中純「秘密の小部屋──「トポフィリ──夢想の空間」展をめぐって」、『教養学部報』第542号、東京大学教養学部、2011年11月2日、2頁。

『教養学部報』のサイトにいずれ掲載されますが、読む手段が当面かなり限定されるため、ここに掲げておきます。

「秘密の小部屋──「トポフィリ──夢想の空間」展をめぐって」

なお、本文中で言及されている、カタログ内容の一部についてのネット上での公開はすでに実現されています。→「トポフィリ──夢想の空間」サイト
 本書の内容をひと言で表わせば、一九〇〇年前後のヴィーンを中心とした領域横断的な思想史ということになろうか。その目的は、この時代が取り憑かれていた「装飾」の文化的意味の解明によって、世紀転換期のヴィーン文化が今なお放つ魅惑の秘密を明らかにすることにある。「エロティシズム」と呼んだのは、そんな魅惑の源としての論理の官能性にほかならない。

 「論理の官能性」という言葉はいささか異様に響くかもしれない。論理のエロティシズム──わたしにそれを最初に教えてくれたのは、本書の登場人物のひとりであるヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』だった。十歳代の終わりに夢中になって読み耽った書物である。この『論考(トラクタートゥス)』のような本を書くことを切望し、こんな本を書きえた天才に嫉妬した。文系だったわたしが理系に転向することを考え、数学や建築に進むことを志望したきっかけも、この書物との遭遇にあったように思う。結局は人文学の道に舞い戻ったとはいえ、『論考』への畏怖に似た思いは失われていない。

 『論考』に官能性を感じてしまうなど、ヴィトゲンシュタイン自身にとってははなはだ心外なことかもしれぬ。だがそれは、彼がヴィーンという「装飾の都」の徹底した批判者だったからこそ、逆に帯びることになった時代性の刻印である。その意味では、彼もまた装飾の影のもとにあった。

 本書でわたしは、ヴィトゲンシュタインをはじめとする反逆者たちまで含めたヴィーン文化を駆動していたひとつの論理を、できる限り鮮明に浮かび上がらせることに、ひたすら専念したつもりである。この時空間における「装飾の運命」の追跡を通して、少なくとも時代の核と見なしうるような文化現象の精髄については、ここで凝縮して示しえたのではないかと自負している。本書で取り上げたアドルフ・ロースの建築のように、新書という一律で目立たぬ外見ながら、内部では各章が重層的に関連し合って豊かな、不思議な小函にも似た書物になっていてくれればと願う。

 本書に三度も登場するロースについては、とりわけ近年再評価の気運が高い。ロースの著作の新訳も準備されていると聞く(編集出版組織体・アセテートから、アドルフ・ロース著作集1『虚空に吼える』が近刊予定とのこと)。劃期的なロース論を含むマッシモ・カッチャーリのヴィーン文化論『シュタインホーフから』(「世紀転換期のウィーン」として部分訳あり)の邦訳刊行も俟たれる。こうした書物を通じて、ロースが生きた時代の重要性がよりいっそう理解されることを期待するとともに、本書もまた、そうした認識の深化に寄与するところがあれば幸いだ。
 本書の登場人物のひとり、建築家アドルフ・ロースは、ヴィーンの街を歩き回っては、「建築家は最大の犯罪者だ!」と口癖のようにつぶやいたという。「装飾と犯罪」は彼の代表的なエッセイである。本書は、このロースが生きた一九世紀末から二〇世紀初頭の世紀転換期ヴィーンをおもな舞台に、「装飾」がそこで担った意味の分析を通じて、近代建築のエロティシズムを考察した試みである。

 世紀転換期ヴィーンは、建築・芸術・思想ばかりではなく、例えばシオニズムや反ユダヤ主義といった政治運動の面でも、その後のヨーロッパの歴史に大きな影響を残したエポックだった。そして、この時代を特徴づけるキーワードが「装飾」なのである。

 装飾論とは言っても、話題は建築や美術のみにはとどまらない。過激な反フェミニストが登場する一方、フロイトの精神分析は一種の装飾の記号論として解読される。哲学者ヴィトゲンシュタインやプラハの作家カフカも、建築家ないし機械技師として俎上に載せられる。そして、建築家の言葉や建築作品は領域横断的に、こうした思想家・作家・芸術家たちとのネットワークの内部に位置づけられることになる。それによって、20世紀以降の建築のみならず、現代の美的なエロティシズムを決定づけた、装飾的なるものの運命を浮かび上がらせることが、本書の目論見にほかならない。

 建築を成り立たせているものは、物体であり空間であると同時に論理である。そして、性欲ではなくエロティシズムを生み出すのは、論理以外の何ものでもない。だから、建築のエロティシズムはその論理にこそ宿る。「近代建築のエロティシズム」とは、従って、エロティシズムの近代的な論理と言い換えてもよい。

 ここで話題にしたいのは徹底して、建築のこの論理的な官能性だけである。それは機能性や経済性や社会性に逆らって噴出してしまうような何かだ。興味があるのはいわば犯罪者だけなのである。そして、ロースもまた、いや、ロースこそは実はきわめて危険で犯罪者めいた、エロス的人間にほかならなかった。

白い錯乱

『UP』9月号に寄稿しました。連載「イメージの記憶」の第25回です。
書誌情報は
田中純「白い錯乱──ル・コルビュジエの「最初の絵画」をめぐって」、『UP』467号(2011年9月号)、東京大学出版会、2011年、51〜57頁。

鳥のさえずり──震災と宮沢賢治bot

『ユリイカ』に寄稿しました。

書誌情報は
田中純「鳥のさえずり──震災と宮沢賢治bot」、『ユリイカ』第43巻第8号(2011年7月号「宮沢賢治──東北、大地と祈り」)、青土社、2011年、85〜91頁。

末尾にはこう書いた。

 だが、と最後に急いで付け加えなければならないが、ここには何か恐ろしく不吉なものがある。それは、賢治の見た「二つの風景」(「春と修羅」)、現実空間と異次元の詩的空間とが二重化した場処に孕まれた危うさへの予感だろうか。死に魅入られたこの空間を満たす「水いろ」の透明な情炎、あるいは透明性へのあまりに「まつすぐ」な情炎の禍々しさ。宗教と科学技術とを最先端の過激さで交わらせようとした賢治の想像力が、その切っ先で煌めかせた不穏な何ものかの到来の兆しを、震災後の危機と賢治botとの遭遇、そしてそこに生じたシンクロニシティに認めたことを末尾にこうして記すのみで、この短い「心象スケツチ」めいた記述は閉ざさなければならない。

 テクストでは触れなかったが、この禍々しささえ帯びた透明性への情炎には、ファシストのための「ガラスの家」であるカーサ・デル・ファッショを建てたイタリア・ファシズムの建築家、ジュゼッペ・テラーニの「汚れなきファシズム」を連想した(拙著『政治の美学』のテラーニ論参照)。
以下、備忘のため。 

歴史の無気味さ

『現代思想』に寄稿しました。
書誌情報は
田中純「歴史の無気味さ──堀田善衞『方丈記私記』」、『現代思想』7月臨時増刊号「震災以後を生きるための50冊」、青土社、2011年、226〜229頁。

 「閻魔様の前を散歩してゐるやうな気持ちだ」──そんな呟きが記憶に甦った。敗戦前後の上海にいた二七歳の青年堀田善衞が、いわば「地獄めぐり」の日々を綴った日記(『堀田善衞 上海日記』)の一節である。堀田は、内戦に向かうこの地に一年以上もとどまり、そこでしか目撃できない何かを徹底して見届けようとしていた。
 この呟きの記憶に導かれて、堀田の『方丈記私記』を手に取った。鴨長明の生きた時代とおのれの経験した戦争末期という、二つの乱世に向けたこの作家のまなざしを、そこで確認したかったのである。
・・・・・・
 「歴史」と化した方丈の、「なんと莫迦げた」無気味さよ。だが、この極小の栖(すみか)こそが、震災以後の危機に徹底して冷徹なまなざしを向けようとする思想にとって、最後の拠り所のひとつとなりうるように思われる。

多木浩二さん追悼

追悼文として多木浩二論を寄稿しました。

田中純「歴史空間の航海者」、10+1 web site、「特集:追悼:多木浩二」、2011年。
URL=http://10plus1.jp/monthly/2011/06/tanaka.php

この特集にはほかに、八束はじめさんと大澤真幸さんが寄稿しています。

希望の寓意

『UP』6月号に寄稿しました。連載「イメージの記憶」の第24回です。
書誌情報は
田中純「希望の寓意──「パンドラの匣」と「歴史の天使」」、『UP』464号(2011年6月号)、東京大学出版会、2011年、42〜48頁。

三島由紀夫における「政治の美学」

『国文学 解釈と鑑賞』特集「三島由紀夫というプリズム」に寄稿しました。
書誌情報は
田中純「三島由紀夫における「政治の美学」──比較思想史的考察」、『国文学 解釈と鑑賞』959号(平成23年4月号)、ぎょうせい、2011年、85〜93頁。

魔術的洞窟

『UP』3月号に寄稿しました。連載「イメージの記憶」の第23回です。
書誌情報は
田中純「魔術的洞窟──キースラーのシャーマニズム」、『UP』461号(2011年3月号)、東京大学出版会、2011年、64〜69頁。

『みすず』読書アンケート特集

五十嵐太郎さんに『イメージの自然史』を取り上げていただきました。ありがとうございました。

わたしの回答は次の通りです。

Frank Ankersmit, Sublime Historical Experience. Stanford, California: Stanford University Press, 2005. 
 コンメディア・デッラルテに登場するナポリ発祥の道化役プルチネッラについて調べていて行き当たる。絵画に描かれたプルチネッラを論じ、18世紀末、崩壊寸前にあったアンシャン・レジーム下における倦怠感という、特定の時代の雰囲気をそこに読み取る論旨。「主観的歴史経験──悲歌としての過去」と題された同じ章で取り上げられているもう一つの対象が、同時代のロココ様式の装飾「ロカイユ」であったこともまた関心をそそった。
 本書は「言語」から「経験」へという現代思想のパラダイム転換──この観点からローティの哲学などが精査される──を背景に、歴史経験の諸相について考察した論文集である。トクヴィル、ホイジンガ、ブルクハルトといった歴史家による過去の経験のありよう──過ぎ去った時代の息吹きや雰囲気を直接に感知するような経験のあり方──がそこで探られてゆく。ヴァールブルクがニンフ論を構想するきっかけとなった友人アンドレ・ジョレスがホイジンガの友人でもあり、『中世の秋』の霊感源となった絵画との遭遇の現場に立ち会っていたという思わぬ知見も得た。
 タイトルの「崇高な歴史経験」とは、フランス革命のような、アイデンティティの根本的な変化を伴う歴史上の集団的トラウマを意味する。そこでは過去が「決定的に喪われたもの」と化して歴史経験を形作る。そうした経験から生まれるノスタルジアとメランコリーは、この書物を支配するものでもある。
 本書を貫くのは歴史を「科学」ではなく「手わざ」や「芸術」(つまり、美学=感性論的な対象)として捉える、歴史理論の「ロマン化」への志向だ。エピローグの最後にはヘルダーリンの『ヒューペリオン』が引用される。読後には保田與重郎『萬葉集の精神』が連想された。ジルベール・クラヴェルという人物の手紙や日記を解読する作業に没頭している最中、その行為それ自体がもたらす経験の反省を強いる内容が深く記憶に残った。

『奇想の美術館』書評

日本経済新聞にアルベルト・マングェル『奇想の美術館』書評を寄稿しました。
書誌情報は
田中純「アルベルト・マングェル『奇想の美術館』書評」、日本経済新聞2011年1月30日朝刊21面。

生命の渦

これも未掲載だった論考。
書誌情報は
田中純「生命の渦──武蔵野美術大学 美術館・図書館」、『藤本壮介 武蔵野美術大学 美術館・図書館』、INAX出版、2010年、16〜17頁。
英訳
Jun Tanaka, "Spiral of Life: The Musashino Art University Museum & Library." Trans. Alan Gleason. Sou Fujimoto: Musashino Art University Museum & Library. Tokyo: INAX Publishing, 2010, pp.18-19.

表象・身体・生理学

ブログに未掲載だった論考。備忘のため。
書誌情報は
田中純「表象・身体・生理学──ショーペンハウアーと19世紀の視覚経験」、『ショーペンハウアー研究』第15号、日本ショーペンハウアー協会、2010年、78〜100頁。

論文(PDF)公開・追記

先ほど公開したPDFについては、次の研究者情報サイトで、Scribdによるクイック・ビューが可能です。

Academia.edu


論文(PDF)公開

Gilbert Clavelについての論文と関連する小論をPDF書類で公開します。
利用条件:引用に際しては書誌情報を明記すること。

田中純「セイレーンの誘惑──南イタリア、神話の呪縛圏(1)」、『SITE ZERO/ZERO SITE』No.3、メディア・デザイン研究所、2010年、354-385頁。→Download (7.8M)
内容:1920-30年代ナポリ周辺におけるドイツ語圏知識人の活動を通して、この地の地霊(=土地の記憶)に根ざした神話論、イメージ論の生成過程を追究する。

田中純「摩滅の博物誌──W・G・ゼーバルトと古写真の光」、『UP』443号(2009年9月号)、東京大学出版会、2009年、36~41頁。→Download (1.9M)

田中純「「星の子供たち」の帰還──占星術の政治的図像学」、『UP』446号(2009年12月号)、東京大学出版会、2009年、34〜40頁。→Download (2.2M)

田中純「卵母セイレーン──誘惑する女たちの深層」、『UP』449号(2010年3月号)、東京大学出版会、2010年、40〜47頁。→Download (2.8M)

田中純「プルチネッラの倦怠──増殖する道化たちの歴史性」、『UP』452号(2010年6月号)、東京大学出版会、2010年、42〜48頁。→Download (2.5M)

田中純「閏の王たち──巨人と小人の無垢」、『UP』455号(2010年9月号)、東京大学出版会、2010年、45〜51頁。→Download (2.4M)

Website

Profile

田中 純
東京大学大学院総合文化研究科・教授
TANAKA Jun, Ph.D.
Professor
The University of Tokyo

Profile (日本語)
Profile (English)

ReaD 研究者情報
ReaD English

科学研究費交付実績

『政治の美学』情報

最近の画像