本書の内容をひと言で表わせば、一九〇〇年前後のヴィーンを中心とした領域横断的な思想史ということになろうか。その目的は、この時代が取り憑かれていた「装飾」の文化的意味の解明によって、世紀転換期のヴィーン文化が今なお放つ魅惑の秘密を明らかにすることにある。「エロティシズム」と呼んだのは、そんな魅惑の源としての論理の官能性にほかならない。
「論理の官能性」という言葉はいささか異様に響くかもしれない。論理のエロティシズム──わたしにそれを最初に教えてくれたのは、本書の登場人物のひとりであるヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』だった。十歳代の終わりに夢中になって読み耽った書物である。この『論考(トラクタートゥス)』のような本を書くことを切望し、こんな本を書きえた天才に嫉妬した。文系だったわたしが理系に転向することを考え、数学や建築に進むことを志望したきっかけも、この書物との遭遇にあったように思う。結局は人文学の道に舞い戻ったとはいえ、『論考』への畏怖に似た思いは失われていない。
『論考』に官能性を感じてしまうなど、ヴィトゲンシュタイン自身にとってははなはだ心外なことかもしれぬ。だがそれは、彼がヴィーンという「装飾の都」の徹底した批判者だったからこそ、逆に帯びることになった時代性の刻印である。その意味では、彼もまた装飾の影のもとにあった。
本書でわたしは、ヴィトゲンシュタインをはじめとする反逆者たちまで含めたヴィーン文化を駆動していたひとつの論理を、できる限り鮮明に浮かび上がらせることに、ひたすら専念したつもりである。この時空間における「装飾の運命」の追跡を通して、少なくとも時代の核と見なしうるような文化現象の精髄については、ここで凝縮して示しえたのではないかと自負している。本書で取り上げたアドルフ・ロースの建築のように、新書という一律で目立たぬ外見ながら、内部では各章が重層的に関連し合って豊かな、不思議な小函にも似た書物になっていてくれればと願う。
本書に三度も登場するロースについては、とりわけ近年再評価の気運が高い。ロースの著作の新訳も準備されていると聞く(編集出版組織体・アセテートから、アドルフ・ロース著作集1『虚空に吼える』が近刊予定とのこと)。劃期的なロース論を含むマッシモ・カッチャーリのヴィーン文化論『シュタインホーフから』(「世紀転換期のウィーン」として部分訳あり)の邦訳刊行も俟たれる。こうした書物を通じて、ロースが生きた時代の重要性がよりいっそう理解されることを期待するとともに、本書もまた、そうした認識の深化に寄与するところがあれば幸いだ。
本書の登場人物のひとり、建築家アドルフ・ロースは、ヴィーンの街を歩き回っては、「建築家は最大の犯罪者だ!」と口癖のようにつぶやいたという。「装飾と犯罪」は彼の代表的なエッセイである。本書は、このロースが生きた一九世紀末から二〇世紀初頭の世紀転換期ヴィーンをおもな舞台に、「装飾」がそこで担った意味の分析を通じて、近代建築のエロティシズムを考察した試みである。
世紀転換期ヴィーンは、建築・芸術・思想ばかりではなく、例えばシオニズムや反ユダヤ主義といった政治運動の面でも、その後のヨーロッパの歴史に大きな影響を残したエポックだった。そして、この時代を特徴づけるキーワードが「装飾」なのである。
装飾論とは言っても、話題は建築や美術のみにはとどまらない。過激な反フェミニストが登場する一方、フロイトの精神分析は一種の装飾の記号論として解読される。哲学者ヴィトゲンシュタインやプラハの作家カフカも、建築家ないし機械技師として俎上に載せられる。そして、建築家の言葉や建築作品は領域横断的に、こうした思想家・作家・芸術家たちとのネットワークの内部に位置づけられることになる。それによって、20世紀以降の建築のみならず、現代の美的なエロティシズムを決定づけた、装飾的なるものの運命を浮かび上がらせることが、本書の目論見にほかならない。
建築を成り立たせているものは、物体であり空間であると同時に論理である。そして、性欲ではなくエロティシズムを生み出すのは、論理以外の何ものでもない。だから、建築のエロティシズムはその論理にこそ宿る。「近代建築のエロティシズム」とは、従って、エロティシズムの近代的な論理と言い換えてもよい。
ここで話題にしたいのは徹底して、建築のこの論理的な官能性だけである。それは機能性や経済性や社会性に逆らって噴出してしまうような何かだ。興味があるのはいわば犯罪者だけなのである。そして、ロースもまた、いや、ロースこそは実はきわめて危険で犯罪者めいた、エロス的人間にほかならなかった。
『UP』9月号に寄稿しました。連載「イメージの記憶」の第25回です。
書誌情報は
田中純「白い錯乱──ル・コルビュジエの「最初の絵画」をめぐって」、『UP』467号(2011年9月号)、東京大学出版会、2011年、51〜57頁。
『UP』6月号に寄稿しました。連載「イメージの記憶」の第24回です。
書誌情報は
田中純「希望の寓意──「パンドラの匣」と「歴史の天使」」、『UP』464号(2011年6月号)、東京大学出版会、2011年、42〜48頁。
『国文学 解釈と鑑賞』特集「三島由紀夫というプリズム」に寄稿しました。
書誌情報は
田中純「三島由紀夫における「政治の美学」──比較思想史的考察」、『国文学 解釈と鑑賞』959号(平成23年4月号)、ぎょうせい、2011年、85〜93頁。
五十嵐太郎さんに『イメージの自然史』を取り上げていただきました。ありがとうございました。
わたしの回答は次の通りです。
Frank Ankersmit, Sublime Historical Experience. Stanford, California: Stanford University Press, 2005.
コンメディア・デッラルテに登場するナポリ発祥の道化役プルチネッラについて調べていて行き当たる。絵画に描かれたプルチネッラを論じ、18世紀末、崩壊寸前にあったアンシャン・レジーム下における倦怠感という、特定の時代の雰囲気をそこに読み取る論旨。「主観的歴史経験──悲歌としての過去」と題された同じ章で取り上げられているもう一つの対象が、同時代のロココ様式の装飾「ロカイユ」であったこともまた関心をそそった。
本書は「言語」から「経験」へという現代思想のパラダイム転換──この観点からローティの哲学などが精査される──を背景に、歴史経験の諸相について考察した論文集である。トクヴィル、ホイジンガ、ブルクハルトといった歴史家による過去の経験のありよう──過ぎ去った時代の息吹きや雰囲気を直接に感知するような経験のあり方──がそこで探られてゆく。ヴァールブルクがニンフ論を構想するきっかけとなった友人アンドレ・ジョレスがホイジンガの友人でもあり、『中世の秋』の霊感源となった絵画との遭遇の現場に立ち会っていたという思わぬ知見も得た。
タイトルの「崇高な歴史経験」とは、フランス革命のような、アイデンティティの根本的な変化を伴う歴史上の集団的トラウマを意味する。そこでは過去が「決定的に喪われたもの」と化して歴史経験を形作る。そうした経験から生まれるノスタルジアとメランコリーは、この書物を支配するものでもある。
本書を貫くのは歴史を「科学」ではなく「手わざ」や「芸術」(つまり、美学=感性論的な対象)として捉える、歴史理論の「ロマン化」への志向だ。エピローグの最後にはヘルダーリンの『ヒューペリオン』が引用される。読後には保田與重郎『萬葉集の精神』が連想された。ジルベール・クラヴェルという人物の手紙や日記を解読する作業に没頭している最中、その行為それ自体がもたらす経験の反省を強いる内容が深く記憶に残った。
日本経済新聞にアルベルト・マングェル『奇想の美術館』書評を寄稿しました。
書誌情報は
田中純「アルベルト・マングェル『奇想の美術館』書評」、日本経済新聞2011年1月30日朝刊21面。
これも未掲載だった論考。
書誌情報は
田中純「生命の渦──武蔵野美術大学 美術館・図書館」、『藤本壮介 武蔵野美術大学 美術館・図書館』、INAX出版、2010年、16〜17頁。
英訳
Jun Tanaka, "Spiral of Life: The Musashino Art University Museum & Library." Trans. Alan Gleason. Sou Fujimoto: Musashino Art University Museum & Library. Tokyo: INAX Publishing, 2010, pp.18-19.
ブログに未掲載だった論考。備忘のため。
書誌情報は
田中純「表象・身体・生理学──ショーペンハウアーと19世紀の視覚経験」、『ショーペンハウアー研究』第15号、日本ショーペンハウアー協会、2010年、78〜100頁。