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    <title>ベルリン、シュプレー川、2012年２月４日</title>
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    <published>2012-02-04T17:14:46Z</published>
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    <summary>氷が溶けて割れ流れてゆく。 ...</summary>
    <author>
        <name>田中純</name>
        
    </author>
    
        <category term="Memorandum" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        氷が溶けて割れ流れてゆく。 
        <![CDATA[川岸を散歩。割れた氷が流れている。<br /><br /><a href="http://www.flickr.com/photos/tanajun/6817672131/" title="Untitled by tanajun2011, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7158/6817672131_a987ceb36a.jpg" alt="" height="375" width="500" /></a><br /><br /><br /><a href="http://www.flickr.com/photos/tanajun/6817673347/" title="Untitled by tanajun2011, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7025/6817673347_f781a140a8.jpg" alt="" height="375" width="500" /></a><br /><br /><br /><a href="http://www.flickr.com/photos/tanajun/6817674351/" title="Untitled by tanajun2011, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7012/6817674351_466207f0bf.jpg" alt="" height="375" width="500" /></a><br /><br />どこかで見た顔の彫像。<br /><br /><a href="http://www.flickr.com/photos/tanajun/6817675263/" title="Untitled by tanajun2011, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7005/6817675263_a26f24651d.jpg" alt="" height="500" width="375" /></a><br /><br />ミース・ファン・デル・ローエ！<br /><a href="http://www.flickr.com/photos/tanajun/6817679637/" title="Untitled by tanajun2011, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7162/6817679637_930bbcda8c.jpg" alt="" height="500" width="375" /></a><br /><br />ここは「記憶の街路（Straße der Erinnerung）」と名づけられ、ある財団（Ernst Freiberger Stiftung）が20世紀前半の傑出したドイツ人たちを称揚して彫像を設置している。ほかにはヒトラー暗殺未遂事件の首謀者や強制収容所で亡くなったユダヤ人修道女、あるいはトーマス・マンらの像が並ぶなかに、ミースがいるというのはいささか奇妙な眺めだった。なぜなら、彼はナチ政権下の1937年に米国に移住しているとはいえ、むしろ、帝国の建築家となってもおかしくないような人物だったからである。<br /><br />台座に埋めこまれた銘板の一つにはこうある。<br /><br /><a href="http://www.flickr.com/photos/tanajun/6817677683/" title="Untitled by tanajun2011, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7174/6817677683_085aa2a41c.jpg" alt="" height="500" width="375" /></a><br />「建築とはその真の姿においてはつねに、精神的決断の空間的実現である。」<br /><br /><br /><a href="http://www.flickr.com/photos/tanajun/6817680827/" title="Untitled by tanajun2011, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7015/6817680827_f659ae5b42.jpg" alt="" height="375" width="500" /></a><br /><br /><br /><a href="http://www.flickr.com/photos/tanajun/6817681991/" title="Untitled by tanajun2011, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7021/6817681991_b4d04b19a6.jpg" alt="" height="375" width="500" /></a><br /><br /><br /><a href="http://www.flickr.com/photos/tanajun/6817683043/" title="Untitled by tanajun2011, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7170/6817683043_54347a455c.jpg" alt="" height="375" width="500" /></a><br /><br /><br /><a href="http://www.flickr.com/photos/tanajun/6817683963/" title="Untitled by tanajun2011, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7018/6817683963_f7beb12095.jpg" alt="" height="375" width="500" /></a><br /><br /><br /><a href="http://www.flickr.com/photos/tanajun/6817685077/" title="Untitled by tanajun2011, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7034/6817685077_acbec1f368.jpg" alt="" height="375" width="500" /></a><br /><br /><br /><a href="http://www.flickr.com/photos/tanajun/6817686849/" title="Untitled by tanajun2011, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7006/6817686849_b6bb60ab38.jpg" alt="" height="375" width="500" /></a><br /><br /><br /><a href="http://www.flickr.com/photos/tanajun/6817687891/" title="Untitled by tanajun2011, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7011/6817687891_cd25ca40f2.jpg" alt="" height="375" width="500" /></a><br /><br /><br /><a href="http://www.flickr.com/photos/tanajun/6817688847/" title="Untitled by tanajun2011, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7007/6817688847_0f9a2165df.jpg" alt="" height="375" width="500" /></a><br /><br /><br /><a href="http://www.flickr.com/photos/tanajun/6817689897/" title="Untitled by tanajun2011, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7163/6817689897_5584d4e920.jpg" alt="" height="375" width="500" /></a><br /><br /><br /><a href="http://www.flickr.com/photos/tanajun/6817690891/" title="Untitled by tanajun2011, on Flickr"><img src="http://farm8.staticflickr.com/7006/6817690891_b68e133062.jpg" alt="" height="375" width="500" /></a>]]>
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    <title>アージア断章──ジルベール・クラヴェルの日記と手紙から（３）</title>
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    <published>2012-02-02T00:12:53Z</published>
    <updated>2012-02-02T00:20:30Z</updated>

    <summary>承前 ...</summary>
    <author>
        <name>田中純</name>
        
    </author>
    
        <category term="Gilbert Clavel" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[承前<br /> ]]>
        <![CDATA[　僕がこの手紙で君に描写したようなアージア体験は、今のところ僕自身は目論むことのできない君の自己分析に対する僕の答えを（ひょっとしたら）与えているかもしれない。君の言っていることはまったく正しいが、こういう反論もある。「友よ、一切の理論は灰色で、みどりに萌えるのは生の黄金の樹だ」［ゲーテ『ファウスト』第一部２０３８～３９行］。<br />　林檎を摘みとることで破滅するかもしれないことは僕にもわかっているけれど、それでもあえてなお、ひとは林檎を食べるんだ！　イヴにまで遡るつもりはないが、楽園はたいてい地獄と引き替えのように僕には思える。「妥協」は悪い逃げ道だ──あとになって回り道を再びたどり直さなければならなくなる近道。ひとが他人を欺くのは、自分自身を欺くためだ。　<br />　今にいたるまでに行なってきたことについて、僕は責任を取れる。パウレがアージアとの関係ではっきりしていなかっただけになおさら。<br />　彼はかつて僕にこう言った。「以前は情熱（この表現を彼は使わなかった）だったけれど、今では落ち着いた友情になった。僕はそれを克服した。」<br />　僕はアージアを崇拝し愛しているけれど、ひとりの女性のために、パウレとの関係を断ち切ることはないだろう。ひとりの女性と拮抗する男同士の真情とは何だろう！　それも彼女がひとりのユリアやイゾルデであるとしたら！<br />　共通の努力、二人の男性が共同して進める仕事は、何かはるかに偉大で持続的なものであり、それゆえ個人の幸福にはとどまらない意味をもつ目標がそこにはある。<br />（...中略...）<br />　アージアがいなければ僕はこの手紙を書かなかっただろう。同様に、この数年の豊かな実りを完成させる、数多くの価値ある出来事を経験しなかっただろう。彼女はオリエントの暮らしを再び僕の眼前に呼び覚まし、僕のメルヘンを書きとめるきっかけを与えてくれた。<br />　あらゆる個人的な感情──好意や愛情を除外したとしても、彼女が僕の存在を自分自身の経験として無数のヴァリエーションで再現したときの熱狂の能力は、南国で経験した最高に素晴らしい時間を僕に贈ってくれた。その時間はただそれだけで一生に値する。<br />　もしかしたら今やもう、僕らの関係の頂点は越えられてしまったのかもしれないし、そうではないのかもしれない。時々僕にはすべてがはるか彼方に遠ざかってしまったように思える。僕は海辺の岩に座り、波のさざめきだけが聞こえる。しかし、やがて新しいアージアが現われ、僕自身もそのあいだに別人になっている。<br />メタモルフォーゼ！･･･<br /><div style="text-align: right;">（１９１１年３月７日付、ルネ宛の手紙より）</div><br /><br />　今日、僕は数えきれないくらい何度も君の名前を濡れた渚に書いた。そして、数えきれないほど何度も波がそれを僕から奪い去り消し去った。君の名は大きな幅のある文字で開けた空の下に並び、誇らしげで大胆だった。あたかもずっとそのまま残り続けようとしているかのように。そこに波がやって来た。しかし、波は優しく，善良で、こう言った。「わたしがお前から奪うものを、わたしはお前に再びもたらすだろう。」<br />　夢はそんなふうに訪れた。<br />　絨毯は素晴らしく柔らかいよ、アージア！　赤い色、青い色、黄色、緑･･･外で嵐が荒れ狂っているあいだ、君の炎、君の夢の灼熱が僕を暖める。僕らの馬は荒々しい。荒々しくて大胆だ──何が彼らを駆り立てるのかわからない。僕らは馬に乗り歌う。僕らは靄に包まれた草原を駆け抜けながら狩りをする。僕らは心に春を抱いている。どこへとは問わない。地平線は無限で、やって来るものも無限だ。<br />『信仰と愛』。　<br /><div style="text-align: right;">（１９１１年３月１４日、ポジターノ、日記より）</div><br /><br />　アージアとパウレのことはまだ何も知らない。あのかわいそうな娘はまた重い病気に罹っていた。僕は彼女の休養のために、家と台所を提供した。ポジターノはたぶん彼女のためになるだろう。彼女は僕と一緒にバーゼルに行きたがった。彼女は、そう、子供がねだるようにそれを望んだ。僕が立ち去ろうとしたとき、彼女は小さなベッドのなかで青ざめ疲れているように見えた。<br /><div style="text-align: right;">（１９１１年４月２７日付、ルネ宛の手紙より）</div><br /><br />　アージア、すべてをすでに眼にし数えきれないほど耳にしてきた、このエジプトの女性から、今日、奇妙な手紙が届いた。彼女の文章は自然そのものだ。彼女は語る、知ってか知らずか、波と風が彼女にささやくことをそのまま書き留める。彼女の無邪気な表現に現われる比喩は、僕にはさながら『ファウスト』第二部への補遺だ。なぜなら、彼女は神秘的な方法で詩と現実とを媒介しているのだから。そんな存在を肉と血を備えたかたちで見出すことができるだろうか？<br /><div style="text-align: right;">（１９１１年５月、バーゼルにて、ルネ宛の手紙）</div><br /><br />（アージアに）<br />　なぜ黙っているんだい、僕が沈黙していると？　手紙は指で数えられるほどしかない交換手段であってはならない。僕は君のことをもちろん忘れていない。──忘れてなどいない。君が僕のところへ来てくれたらとどれほどしばしば願ったことだろう。<br />　ゲーテの東屋が建つヴァイマールの静かな公園で、僕は君の手を取り、君に何もかも見せてあげたかった。そこはどれほど厳粛な雰囲気だったことか。静かで冷え冷えとした公園の道、過去の偉大な人物たちの面影を映す暗い水域。<br />　その中心がゲーテであるような、どんな種類の人間集団をヴァイマールは呼び集めずにはおかなかったことか！<br />　僕は彼らが朗読の夕べを持ったヴィットゥム宮殿を見た。ゲーテ・ハウスにも行った。また会えたときに、それらについて君に話そう。<br />　それはどこで、いつになるだろう？<br />　夜にライン川がさざめくとき、僕がしばしば思い描くのは、僕らが海辺に座っている光景だ。君は君の手を僕の手に重ねる。すると僕は自分の人生が太古のように見え、波がそれを君に対して若く新鮮にする。<br />　僕の言葉がわかるかい？<br />　僕が歌えるならば、歌を歌うのに。僕は黙っていることもできる。眠っているときにささやく、君の森のように沈黙していることも。<br />　君は僕を愛しているの？<br />　僕はすべてのもののなかに君の眼を見る。それはいつもこう語る。「そう、その通り。」──君は<u>僕の</u>生成に関与しているんだ、アージア。･･･そして、時々、君は僕の前に、掟のように厳しく立っている。<br />　君はまたそんなふうでもあらねばならない。<br />　柔らかでしなやかなものではなく、堅く留まり続けるものもまた、君のなかに隠れている。<br />　そんなふうにして、僕は君を崇拝していたい。<br />　すべての自然の事物のなかで。<br />　君がどこにいて何をしているのか、手紙を書いてくれ。僕が何か君を助けられるなら、それを僕に言ってくれ。君はただささやくだけでいい。そうすれば僕には君のことがすぐわかる。<br />　恐らく君はこの時間にはカプリにいて、君が僕によく話してくれた古い樹を抱きしめているのだろう。<br />　僕は夕べの風にさざめく。<br />　元気で。<br />　君の忠実なる　　　　　　　ジル<br /><div style="text-align: right;">（１９１１年６月１１日、クラインヒューニンゲンにて、日記より）</div><br /><br />アージア<br />　ねえ君、僕を愛しているかい？　時折僕は、君が決定的なことを僕のためにできるかどうか、そのすべても知りたいと思う。愛する者はなんと残酷だろう。犠牲、いつもただひたすら犠牲。<br />　ねえ君、僕は君が僕のために苦しんで死ぬことができるかどうかを知りたい。僕はそれを、南国の容赦ない明るさのなかで眼にしたい。僕は君が跪いたり，懇願したりするのを見たくない。君はそれを自分自身の口で言わなければならない。<br />　これは疑念ではない。こうしたことを求める意志に過ぎない。決定的なことが完全に誰かに属しているということ、分割できぬほど固有のものであるということ。<br />　世界のなかの何かを所有すること、何かを感じること、それが自分自身の血であるような何かを。ああ、人間とは、どんなに友人がいても、自分自身をつねに孤独に感じるものなのだ。<br />　僕の努力、僕の確信は芸術にあるが、時々僕はそれが僕の身の回りに生きた状態で存在するのを見たい。受肉し、肉と血を備えて。<br />　ひょっとしたら、女性のなかにそんなものを見ようとするのは、馬鹿げた願望なのかもしれない。実体のない何かを捉えようとする馬鹿げた願望。<br />　ああ、風と波をとどめようとする、われら所有欲に駆られた人間たち。──<br /><div style="text-align: right;">（１９１１年６月１７日、クラインヒューニンゲンにて、日記より）</div><br /><br />　今日、僕は独りで自宅に帰ってきた。･･･部屋は空で、家具は布で覆われ、絨毯は丸められていた。まるでそこにまた再び戻ってきた誰かを、依然として待ち続けているかのように。<br />　僕がここにアージアと一緒にいてから、数カ月が過ぎ去った。しかし、あたかも今日があの日であったかのように、外では海がさざめいている。<br /><div style="text-align: right;">（１９１１年１０月１７日、ポジターノにて、日記より）</div><br /><br />　僕はまずパウレに会った。僕がリストランテ・チェントラーレで前に立ったのを見たとき、彼はまったくびっくりした様子だった。もちろん僕らは矢継ぎ早に質問を浴びせかけあったので、しまいには疲れ果て質問を出し切って別れた。同じ晩、僕はアージアも訪ねた。僕は彼女があるヴィラにいるのを見つけた。そこに彼女は姉妹のゼーラあるいはイレーナと一緒に住んでいた。彼女は再び僕に魅惑的に働きかけた。彼女はまさに僕を魅了した。視覚、嗅覚、聴覚のすべてが一体となった、彼女の存在の独特で異国的な要素──花の薫りのように、知的に理解されるよりもほのかに感じ取られるこの繊細な魂こそが、最後にはいつも決まってひとを熱狂させるのだ。われわれの活力であるとともに破滅でもあるような、この無気味な激流へと向けて。<br />　けれど僕はまた、アージアについてこれ以上先に進みたくはない。彼女を眼にしないでおきたい。僕は女性のなかのこの神秘的な力に屈したくない。僕の言っていることがわかるかい？　こうしたことは口に出して言うまでもないだろう。<br />　パウレには僕らの関係を言葉で表わせるかぎりで率直に説明した。彼女のせいで僕らが不仲になるとは考えていない。僕自身は今では何も不安に思っていない。僕はアージアに、この世で僕よりもはるかに孤独なパウレを悲しい争いから守るためには、彼女と別れるのが一番いいだろう、と告げた。しかし、彼女は頭を振り、自分はこの際、南国をむしろ立ち去りたい、なぜなら、僕は彼や僕自身のことばかり考えていて、彼女のことなど念頭になかったのだから、と言った。<br /><div style="text-align: right;">（１９１１年１０月１８日、ポジターノにて、ルネ宛ての手紙より）</div><br /><br />　アージアは静かな庭のなかをあちこちと行き来している。薔薇の茂みのあいだに彼女が立っているのを僕は眼にしている。彼女は手に花を持っているのだろうか？　僕の机の上のガラスのグラスには、黄色い薔薇が浮かんでいる。彼女が昨日僕にくれたものだ。──もう黄昏が訪れたのか？　海、船の帆、そして薔薇。それらは夏と冬のように、はかなく、しかし、永遠だ･･･。<br /><div style="text-align: right;">（１９１１年１１月５日、カプリ島にて、日記より）</div><br /><br />　愛するアージア。底知れないものが僕を惹きつける、君のなかにもある底知れぬものが。けれど、すべては孤独から来るのだし、僕らは再び孤独へと帰ってゆく。<br />　僕らはそうしなければならない。それは暗い力との闘い、魔物や暗黒との闘いだ。まだ火を石から熾していたころ、僕らは真理に（今よりも）近かった。今では僕らは、それを見出すために、多くのものを捨て去らねばならない。僕の考えはあまりに晦渋だろうか。僕の言っていることがまだわかるかい？<br />　時間をかけて僕がもっと良い形式を見つければ、すべてはもっと明らかになるだろう。僕は掘り下げたい、深く掘り下げたい、ただし、モグラの穴ではないようなものを。広くて開かれた穴（竪穴）を造り上げたい。誰もがそこを覗き込めるような。光が底にまで落ちれば、黄金が輝くだろう。光なしではすべては死だ。<br />　君はいつ僕の孤独のなかへ来てくれるの？　何もかも準備できている。これが旅費だ。<br /><div style="text-align: right;">（１９１１年１１月１２日、ポジターノ、日記より）</div><br /><br />　一昨日ママとニコルがやって来た。ニコルはとても美しい少女になっていたけれど、話し方に──それに僕が思うに考え方にも──粗暴なところがあって、ひとりの女性としては、その点が僕にはあまり気に入らない。とはいえ、恐らくこれは幻滅した愛情を隠すための仮面に過ぎないのだろう。この件に関しては、ほかの点でかなり混乱しているように僕には見えるこの少女の魂にもっと近づいて耳を傾けるまで、判断をまだ自分に許したくない。女性の研究はつねにためになる、たとえ危険ではあっても、ひとを幻滅させないかぎりは。僕は今、とても無気味なほど真実らしく響く、オスカー・ワイルドの次の警句のことを考えている。「女性とは秘密をもたないスフィンクスである。」<br />　ママは、ニコルをスピネッリの伴侶にと思っている。ニコルの意図や願望を確かに彼はそこそこかなえることだろう。彼女は「ワタシハ、オ金持チトシカ結婚シナイワ！（Je ne veux qu'un mari riche）」と言っているのだから。<br />　これをアージアのこんな言葉と比べてみよう。「わたしの血管にはステップで暮らし、決してお金を手にすることのなかった人々の血がまだ流れているの。──すべてを所有していた当時すでに、わたしにはお金というものがまったく我慢ならなかった。たぶんわたしは気づいていたのね。いつかそれがわたしの人生を破滅させるだろうと。」<br />　これは僕らには異質に、ほとんどロマンティックに響く。僕らという──きっとこう言っても差し支えないだろうが──まさに金を手に入れるために教育された者にとっては。<br /><div style="text-align: right;">（ナポリ、１９１１年１２月２５日、ルネ宛の手紙より）</div><br /><br />［アージアへの手紙］<br />夢<br />　昨晩、また奇妙な夢を見た。夢には旅立とうとする君が現われて、ちょうど僕に別れを告げようとするところだった。年配の婦人が君のかたわらにいた。身分の高い家柄の女性で、なぜかはわからないが、侯爵夫人と呼ばれていた。<br />　君にこの関係の事情を尋ねると、君は改まった態度でとがめるような遠慮を見せながら答えた。<br />「こちらはわたしの伯母で北方出身です。」<br />　こうした真面目で誇らしげな言い方をする君が、僕にはたいそう気に入った。<br />　僕はそれまで君がこんなふうにはっきりと話すのを聞いたことがなかった。この夢における変容のなかで、君の物腰、まなざし、身ぶり、無視、そして、僕らの別離を語るときの高みに立った態度もまた、僕にはまったく新しいものだった。「では、これですべては正しい道を進むことになる」（と僕は言い）「君は君がそこからやって来た故郷に戻るのだね」と言った。<br />　僕の言葉は君に何の印象も与えず、僕は自分が君に対する心理的な影響力をまったく失ってしまったことに気づいた。<br />　僕は黙り、君が僕の前に立っているあいだ、君の小さな足や、そのうえに落ちかかる、大きくて柔らかなラインと下に延びてゆく模様をもった暗い色の服を念入りに観察していた。僕が君と付き合っているあいだ、君がこれほど美しい服を持っていたことは一度としてなかった。その服は君を簡潔で洗練された上品さで包みこみ、外から内まで本当に君にぴったりだった。けれど、僕の感嘆の念は君には気に入らず、君の伯母さんの侯爵夫人は蔑むようなまなざしのもとで、それを君と面識のない他人の無礼な好奇心と受け取っていた。僕はこの出会いが悲しくはなかったし、それについてまったく幻滅などしていなかった。むしろ僕には、まさにこうした拒否やよそよそしさこそが好ましかった。なぜならそれは、不可解な理由を探ろうとする欲望を刺激したからである。<br />「君はどうやってこんな高貴な親類の方とのご縁を得たの、アージア」と僕は尋ねた。<br />　君は半ばもの問いたげに半ば不安げに伯母さんを見てから、短く答えた。<br />「わたしたちは再会したんです。──この方がわたしを見つけ出してくれました。」･･･<br />　しかし、侯爵夫人がアージアの話をさえぎった。彼女はこう口をはさんだ。<br />「彼女は今ではもうアージアという名ではなく、ドベルスキー夫人です。彼女の最初の名前に関係することは、すべてお忘れいただくようにお願いします。」<br />　僕はこの叱責にまったくびっくりしてしまい、説明を期待して、僕のために開かれようとしているはずの君の口を見た。けれど、その口はじっと動かぬままだった。それは一度もぴくりともしなかった。そう、いかなる影も君の表情には浮かばなかった！　君は立ちつくしたまま、一度たりとも微動だにせず、君の服のラインが変化することはなかった。<br />　何の反論もなされなかったそのとき、ひとが時折夢のなかで味わう、涙はないが心を締め付けるような悲しみが僕を襲った。僕は侯爵夫人のほうを向いて小さな声で言った。<br />「以前彼女の名はソロヴェイ（Solowei）･･･」侯爵夫人は最初よりももっと鋭くさえぎった。<br />「革命の最中にはいつまでも続く名など存在せず、最後にはいつも決まって伝統がものを言うことをご承知になるべきです。」<br />　僕らは突如として暗くなった駅のプラットホームに立っていた。列車が出発したり到着したりした。待避線にひとりの男が立ち、赤旗を巻いた。<br /><div style="text-align: right;">（１９１２年１１月３０日、ボルディゲーラ、日記より）</div><br /><br />　愛するアージア、──僕らの内なる神的なものは場所や時間から自由であると僕は思う。それは拡散したかと思えば再びまた合体する。火を起こしながらそれは永遠を駆け抜け、切り離された力をひとつの全体へと統合する。<br />　障害物に邪魔された炎が高みで再び合体するさまを、君は今までに眼にしたことがないかい？<br />　ファウストとヘレナ、ダンテとベアトリーチェは、何千回もの変身のなかでそんなふうに恋い焦がれたのだと思う。<br />　エジプトの夜、かつてポジターノにいたときと同じくらい、君は僕のそばにいた。<br /><div style="text-align: right;">（１９１３年４月１８日、カイロ、日記より）</div><br /><br />　アージアに対する僕の関係はそもそもかなり明らかだ。僕らは次第に──揺り戻しが幾度も起きながらも──、互いに独立したままで居続けることを望む、精神的な友人になってきた。僕らのあいだには義務も権利もない。たいていは一時的な気分で、何が良くて何が良くないのか、何をしなければならぬか、させるべきかを決めている。かつて思い描いていたかもしれないような結びつきが可能になるには、僕らは立場も教育も、そしてとりわけ人種が違いすぎている。<br />（...中略...）<br />　僕にはいつも、アージアが異国から神秘的な車に乗って訪れたかのように思える。僕らは互いが誰なのかを知らずに、道端で出会い、愛し合い、そして再び別れてゆく。<br />　何が残るのか？　今日では僕には、憧れこそどんな願望の成就よりもずっと偉大であるように感じられる。<br />　アージアはミニョンのような女性であり、そうあり続けている。<br /><div style="text-align: right;">（１９１３年７月７日、カプリ島、ルネ宛の手紙より）</div><br /><br />]]>
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    <title>アージア断章──ジルベール・クラヴェルの日記と手紙から（２）</title>
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    <published>2012-01-31T22:05:15Z</published>
    <updated>2012-01-31T22:14:00Z</updated>

    <summary>承前 ...</summary>
    <author>
        <name>田中純</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://before-and-afterimages.jp/news2009/">
        承前 
        <![CDATA[　黄昏。部屋は柔らかな薄明のなかで安らいでいる。海のさざめきがかすかに下から聞こえてくる。アージアは僕の隣に座っている。<br />「ねえ君、何を考えているの？」僕はささやくように尋ね、見開かれた大きな眼を見つめる──あたかもその背後に伝説の国々を透かし見るかのように。<br />「海のこと。ステップのことかもしれない。両方とも広くて、両方ともさざめく音がする。」<br />　その表情は安らかなままで、唇は震えている。彼女はなかば夢のなかで語っている。<br />　彼女は平原に屹立するエジプトの彫像、千年の齢を重ねた一人なのかもしれない。<br />　･･･僕の意識ははるかに遠ざかってゆき、もうそこに時間はなかった。黄昏が僕を包みこみ、僕の生はただひとつのさざめきに過ぎぬものとなる。<br />　そしてやがて静まりかえった静寂･･･<br />　暗闇のなかから手が延ばされて触れ、吐息のようにかすかな声。「わたしたちはどこにいるの？　どのくらい眠っていたの？」<br />　海がさざめく。<br />　「あれは永遠だったのかもしれない。」<br />　僕の隣に座っているのはアージアだ。絨毯を撫でているのは彼女の手だ。･･･<br />　すでに一度こんなことがあったのではないか？　僕らはインドで暮らし、白い象に乗ったのではないか？　大気はむっとするほど暑く、重い薫りが漂っていた。･･･<br />（...中略...）<br /><br />　僕は柔らかな膝に包まれて休んでいる。真上にかがんでいるのは緑がかった白い顔、けれど、その眼は雪のなかの炎のように輝いている。<br />　「アージア、君はどうやって僕のところに来たんだい？　それになぜそうしたの？」<br />　彼女の眼は僕を越えて夜の海をさまよい、それから子供のような声でこう言う。<br />　「わたしは感じるままに考えるの。だからわたしは、あなたのところへ来なければならなかった。」<br />　「そして、他の人たちは･･･」と僕は尋ねる。<br />　アージアは頭を深く、次第により深く沈め、その解かれた髪の毛が僕を覆い、それから彼女は答える。「今日、わたしはあなただけのもの。そして明日（彼女はしばらく中断する）ああ、わたしはずっとあなたとあなたの絨毯のそばにいたいわ。」･･･<br /><br />　そんなふうに最初の夜が来た。急ぎ足で過ぎ去ってゆく静かな夜。アージアは僕の部屋の黄緑色の絨毯のうえ、僕の隣で休んでいた。家のなかは死の静寂が支配していた。僕らの部屋のドアは半開きになっていた。何かを待っていた。──そして、僕は聞き耳を立てた。<br />　すると、彼女の吐息と海のさざめきが聞こえ、その二つが互いに溶け合い、和音をなすかのようだった。<br />　外は冷え冷えとして澄み切った夜が支配していた。空には月が輝き、青白い光を暗い鋸歯形の山に投げかけていた。プライアーノの道は今頃はどれほど物寂しく人けがないことだろう。<br />　そして再び僕は、彼女の吐息が部屋を通り抜けて流れてくるのを聞き、それをこの孤独な夜に降る暖かな驟雨のように感じた。<br />「アージア、眠っているのかい」と、僕はほとんど懇願するように呼びかけた。<br />「アージア」<br />　一瞬、彼女の吐息が途切れたように思えた。海のさざめきだけがまだそこにあった。それは永遠にも感じられた。──「眠っていたの──少し夢を見たわ。あなたは？」<br />　彼女は身を動かした。それから誰かが裸足で部屋を横切ったようだった。それは僕だったのだろうか？<br />　彼女はどんなに奇妙に見えたことだろう。彼女は再びまた別人の、名もなき女性であり、それでいてアージアという名でもあるのだった。<br />　「わたしの隣に来て、チュニスで聞いたメルヘンのひとつをわたしに聞かせてちょうだい。･･･<br />　なぜ黙っているの？」<br />　僕は彼女の手を探し、彼女は震えた。僕はそれを堅くつかんだ。するとまた彼女の髪の毛の薫りがして、熱帯のジャングルから伝来した熱病のように、僕の感覚を麻痺させた。<br />　「アージア、アージア、君は何者なのか、教えておくれ。」<br />　夜は静まりかえった。海は白砂の上でかすかにさざめいていた。──<br /><br />　アージアはひとつのメルヘンのようにポジターノにやって来て、メルヘンのように再び去った。僕は帰ってゆく彼女にかなり長い距離付き添い、「ロ・ジェルマーノ」でようやく彼女の乗った車に別れを告げた。彼女は長い間手を振っていた。木々や灌木のあいだに彼女の手が現われるのを僕はしばらくのあいだ何度も眼にした。最後の曲がり角が来て、岩壁の陰に彼女が姿を消してしまうまで。<br /><br />　あれから数週間。僕らはナポリで再会した。このとき、アージアは僕が作らせた黒いビロードの服を着ていた。外見のうえで彼女はまるで人が変わったようだった。彼女の素性の秘密は徐々に明らかになりつつある。ある晩、ホテル・ヴェスヴィオで一緒に食事をしたとき、彼女は古い城のことを語った。僕はいくつか質問をしたのだが、するとにわかに深い悲しみが彼女を襲い、姉妹のもとへ帰宅したいと望むのだった。<br />　一度僕は彼女を自分の部屋へ連れて行った。それはいろいろな体験に富んだ一日のあとで、僕は彼女にまだ何か、前夜に書き留めたものを読み聞かせてやりたかった。いくつかのスケッチ（彼女の名前を冠したもの）が明らかに彼女を感動させた。<br />　彼女は風変わりな仕方で苦しみにうめき、突然笑い声を上げたかと思うと、再び静かに、彫像のように冷たくなった。<br />　彼女は僕を鋭いまなざしで見つめた。彼女は僕のうちに、パウレよりも自分自身によりいっそう似ている何かを見つけたのだろうか？　──彼女はまた自分自身とも闘っていた。それを僕は感じた。<br />　僕の部屋は生彩を欠いて住み心地が悪かった。鉄製のベッド、見かけ倒しの鏡付き箪笥、ぼろぼろになった布張りの椅子が一組、この椅子には房飾りが欠けていた。ドアの横の衣服掛けは壁から剥がれていた。多くの人々がここを通り過ぎたことが感じられた。<br />　「時々自分自身についてものすごい不安を感じるの。異様な感情がわたしのなかに呼び起こされるの。それは一度目覚めたら、わたしを呑み込む流れのように荒れ狂ってゆく。──あなたも知っているように、わたしはヨーロッパの女ではないの」とアージアは言う。<br />　最後の響きは問いかけのようだった。あるいはそれは非難、いやひょっとして懇願だったのだろうか？<br />　心のなかで、僕の目の前には突然、ナポリの港が浮かんだ。帆柱の森のうちに、二艘の船が停泊していた。一艘はインドから、もう一艘は北方から来た船で、それぞれがひとつの世界をその内部に秘めていた。風がその二艘を駆って見知らぬ大海を越え、ともにこの港へと導いてきたのだ。今は二艘がとても近くで波に揺られていたけれど、お互いに相手がどんな存在であるのかを知らなかった。<br />　アージアは僕の腕のなかで安らいでいた。彼女の頬は冷たくそっと、僕の頬にもたれかかっていた。その肌はどんなに柔らかく感じられたことだろう──まるで鳥の羽毛のように。その下を奇妙な血が流れていた。冷えていたのかもしれない。落ち着いた鼓動、やがて、突然そこに波のうねりが高まって、灼熱する激情を僕に告げた。そのあと、彼女は震えていた、稲妻に驚愕した獣のように。･･･<br />　窓の外では日常生活がせわしなく続いていた。トラムが冷たいレールのうえを容赦なく金属音を立てて走った。人々が大声で話し、疲弊した馬たちの蹄音【あしおと】が上まで響いてきた。鞭が鳴った。<br />　この瞬間、僕には人生が鋼鉄の刀のように思われ、その刃が自分に向けられているかのように感じた。<br />　アージアは僕を口づけで覆った。<br />　「わたしをあなたのものにして、わたしのすべてを」と彼女は言った。<br />　僕は彼女の温もりを感じ、彼女の髪のうっとりするような薫りを吸った。けれどそのとき、外部から何か冷たい静寂のようなものが僕に訪れ、僕はこの子供に語りかけた。<br />　「今は駄目だよ、ねえ君、駄目だ、駄目。いつか君が大きく強くなったときにね。」<br />　それから僕らは二人ともじっと沈黙したままだった。僕は彼女の黒髪を幾度も幾度も撫でた。　<br /><div style="text-align: right;">（１９１１年３月６日および７日付、ルネ宛の手紙より）</div><br /><br />]]>
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    <title>アージア断章──ジルベール・クラヴェルの日記と手紙から（１）</title>
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    <published>2012-01-31T21:41:35Z</published>
    <updated>2012-01-31T22:14:34Z</updated>

    <summary>承前　その１　その２　その３謎の女性「アージア」（本名不明）をめぐるジルベール・...</summary>
    <author>
        <name>田中純</name>
        
    </author>
    
        <category term="Gilbert Clavel" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://before-and-afterimages.jp/news2009/">
        <![CDATA[承前　<a target="_blank" href="http://before-and-afterimages.jp/news2009/2011/02/1911.html">その１</a>　<a target="_blank" href="http://before-and-afterimages.jp/news2009/2011/02/1911-1.html">その２</a>　<a target="_blank" href="http://before-and-afterimages.jp/news2009/2011/02/19113.html">その３</a><br /><br />謎の女性「アージア」（本名不明）をめぐるジルベール・クラヴェル（1883〜1927）の言葉。]]>
        <![CDATA[　僕をますます惹きつけたのはアージアだった。彼女の独特な精神に僕は特別な興味を感じた。僕らは互いの好意を誤解させないような仕方で近づいた。それは愛でも情熱でもなかったけれど、僕の感覚では、「良い友情」という概念では表わせない感情だった。それはそうした友情以上、あるいはそれ以下の何かだった。<br />　僕はしばしばアージアに付き添って町へ行った。子供にしてみせるように彼女にナポリの生活を見せてやり、美術館を案内し、そのあとレストランで彼女と一緒に食事をした。彼女が行くところ、その存在は注目を集め、人々は彼女を何か異様なもののように見つめた。僕は彼女の貧しい身なりが残念だったし、彼女もそれを悩んでいた。僕がそこでしたことといったら！　僕は彼女を連れて店に行き、黒いビロードの服を彼女のために注文した。僕と洋裁師の女性たち、それにアージアを君に見せてやりたかったよ。アージアは何もかもとても気に入っていた。それは非常に奇妙な眺めだった。──僕らの関係は緊張している。それはほとんど無気味なものになった。ある午後、彼女は僕の部屋にやって来た。「疲れたの」と彼女は言った。「あなたのところで休みたいの」と。無邪気な自明さで彼女は靴とスカートを脱ぎ、子供のように僕のベッドのなかにもぐり込んだ。そんなふうにして、僕は彼女のかたわらで休んだ。後悔したかもしれないようなことは起きなかった。鉄の檻のなかにいる猛獣のように、僕らは堅い意志で自分たちを押さえつけていた。<br />　結局、僕はナポリを旅立った。僕がポジターノに着くか着かないかのうちに、パウレがナポリに来た。僕はアージアから奇妙な手紙を受け取った。彼女はこう書いていた。「わたしにとって明らかなのは、若い娘だけが初めて愛せるような仕方でわたしがハンスを愛しているということ。あなたには率直にそれを教えます。なぜならあなたはそれに耐えられる人だから。」そして、さらに「わたしを見捨てないで。わたしの友達でいてちょうだい。わたしはもっと成熟した女性のようでありたいの。」僕は落ち着いて彼女に返事を書き──僕らの関係がどうなろうとも──彼女を助けることを請け合った。そうこうするうちに、僕は病気になった。（...中略...）<br />　アージアは僕が病気だという葉書を受け取った。それが彼女にとってはすべてだった。僕は病後初めて、再び食堂で昼食をとっていた。フォークに巻いたスパゲッティを呑み込むのに苦労していたまさにそのとき、ドアのノッカーが打ち鳴らされた。僕は自分でドアまで行った。ドアを開けるか開けないかのうちに、誰かが空飛ぶような素早さで倒れ込んできた。青ざめたアージアが興奮したまなざしで僕の前に立った。それから起きたことを、これ以上この手紙で君に語ることはできない。今日はこう言うだけで満足しよう。奇妙な人間というものが存在するが、さらにそれ以上に奇妙な運命もまたあるのだと。<br /><div style="text-align: right;">（１９１１年２月１９日、弟ルネ宛の手紙より）</div><br /><br />　アージアが僕のかたわらにいた。僕らはヴィラのあいだを散歩し、それからベンチの上に座った。今日、彼女は僕が作らせた黒いビロードの服を着ていた。この暗い色の服は彼女の表情を開放的にしていた。それは奇妙に輝いていた。堂々たる椰子の木々と空が彼女の上にあった。僕は頭を彼女の肩にもたせかけた。<br />　僕は二人の人物が互いを感じ合っているさまを思い、海がはるか遠くでさざめくのを聞いた。　<br /><div style="text-align: right;">（１９１１年２月、ナポリにて、日記より）</div><br /><br />　僕はＳ［アージア］を訪ねた<small>［註］</small>。彼女はＰ［パウレ？］の葉書を持っていた。諍い、僕にはそれが起こるのがわかっていた。Ｓは悩んでいたので、僕は助言しなければならなかった。こうした事柄では言葉がどれほど陳腐に作用することか。<br />　そこで僕はピアノを弾いた。僕の声はその音色のなかに溶解した。そのおかげで、僕は繊細な変奏を加えてＳにすべてを話すことができた。<br />　僕がピアノから立ち上がったとき、彼女は緑のヴェールをまとっていた。青白い光が彼女の顔のまわりを取り巻いていた。僕はそのあまりの美しさに恐怖を感じた。<br /><div style="text-align: right;">（１９１１年２月２６日、ナポリにて、日記より）</div><br /><br />　彼女を呼び寄せようか？<br />　「アージア、アージア。僕のところに来て。弟が君を待っているよ。」<br />　彼女はゆっくりと向きを変える。<br /><br />［アージアの手紙］<br />　わたしはここにいます。<br />　わたしの魂は今やあまりに多くの喜びで満ちているので、全世界を抱きしめたいほどです。<br />　ジルベールには人生をメルヘンに変えてしまう天分があります。<br />　わたしは彼と一緒にすでにたくさんの素晴らしい時間を経験しました。それをわたしは決して忘れないでしょう。<br />　もっと多くの人々にそんな魂が備わっていれば、人生はどんなに美しいことでしょう。<br />　今はそれも過ぎ去りました。そして、わたしの過ちを終えようとは思いません。わたしはそれらを今、もう書きません。なぜならまだジルベールと散歩に行きたいからです。<br />　あなたがここと同様にお元気でありますように。<br />　豊かな日差しと安らぎとともに。<br />　アージアより。<br /><br />　奇妙な手紙じゃないか？　僕はそれをそのまま君に送る。そうこうしているうちに夜になった。これからアージアと海辺に降りるつもりだ。･･･<br /><div style="text-align: right;">（１９１１年２月２８日、ルネ宛の手紙より）</div><br /><br />　あるいは君がこうした魔法を使う娘なのか、異国風の名前をもつ娘。<br />　君の髪は黒く、軽くカールしている。君の頬は柔らかく、黄色みを帯びている。君は大きな黒い眼と、小さく華奢な足をしている。<br />　ファティーマは君のように、ほっそりとして、赤く鈍く光る爪をしていた。･･･<br />　再び砂漠がさざめく、それは海だろうか？　ねえ君、なぜ君は動かない？──<br />　僕らは二人ともヴィラのなかのベンチに腰かけていた。僕らは午後、見知らぬ人々のあいだで過ごしていた。ようやく訪れた静けさのなかで、僕らは口づけをした。彼女の顔はずっと僕の肩のうえで安らいでいた。すると突然、剣の一突きのように、青灰色のマントを羽織ったひとりの男性。冷たく無関心なまなざし。彼は通り過ぎた。　<br /><div style="text-align: right;">（１９１１年２月２９日、ナポリにて、日記より）</div><br /><br />　Ｓ（アージア）に<br />　海と山は今日はとても静かで、自分自身の吐息が聞こえるようだ。この雰囲気は僕をほとんど厳粛な気分にさせる。<br />　僕は海沿いの人けのないラウリートの谷で横になっていた。波のさざめきや風のささやきが聞こえた。みずみずしい大地とスミレが香った。春だった。<br />　君はどこにいたの？<br />　僕ははるか高台の道路を一台の車が行き過ぎるのを聞いた。色とりどりの帯がきらめいた。<br />　そのとき僕は、君と人生がすでに僕のかたわらを遠くに行き過ぎてしまったのだと思った。<br />　なぜ手紙を書いてくれないの？<br />　僕は君が何をどんなふうに考えているのか知りたい。･･･<br />　『善悪の彼岸』<br /><div style="text-align: right;">君のジルベール</div>　<br /><div style="text-align: right;">（１９１１年３月６日、ポジターノ、日記より）</div><br /><br /><small>註：１９１２年１１月３０日の日記に記された夢でクラヴェルはアージアの名を「ソロヴェイ（Solowei）」と言いかけている。まさに名が奪われるという
出来事をめぐるこの夢で、彼がアージアの真の名を一瞬明かしていたのだとしたら、手紙の宛名に現われるＳとはロシア人の姓として確かに存在する「ソロヴェ
イ（Соловьи）」の頭文字であろう。ちなみに、ソロヴェイとはロシア語で「サヨナキドリ」すなわち、ナイチンゲールを意味する。</small>]]>
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    <title>『職業としてのディレッタンティズム』</title>
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    <published>2011-12-14T20:31:21Z</published>
    <updated>2011-12-15T10:06:21Z</updated>

    <summary>ベルリン文学・文化研究センターのシンポジウムで御用達のようにして本を売っていた出...</summary>
    <author>
        <name>田中純</name>
        
    </author>
    
        <category term="Memorandum" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://before-and-afterimages.jp/news2009/">
        <![CDATA[ベルリン文学・文化研究センターのシンポジウムで御用達のようにして本を売っていた出版社KADMOSのラインナップから、テーマが気になったので買った１冊、『職業としてのディレッタント』（<a target="_blank" href="http://www.amazon.de/Dilettantismus-als-Beruf-Safia-Azzouni/dp/3865990800/">ドイツ語原書</a>）。<br />]]>
        <![CDATA[二人の編者Safia AzzouniとUwe Wirthによる序文ではまず、芸術においては無か巨匠であるかのいずれかしかないが、学問においては少なくともひとつの分野の専門家であるとともに、総合的な視野をもち、できうるかぎり多くの分野でディレッタントとなる可能性がある、というブルクハルトの言葉が引かれている。18世紀まで「ディレッタント」に今日のようなネガティヴな意味合いはなかった。それが19世紀における学問の専門化とともに変わり、真剣であるべき事柄を面白半分に論じる好事家といった批判的なニュアンスをもつようになる。ブルクハルトはそんな貶められたディレッタント概念をもう一度肯定的に用いようとしている。<br /><br />編者たちは議論の大枠として、専門家、素人、ディレッタントの関係を次のように定める。専門家はその知識や方法のみならず、学問ないし芸術の共同体の一員であるという制度的な立場によって規定される。素人とは非専門家であり、啓蒙の対象であると同時に、専門家が依存する経済的・政治的な巨大集団である。ディレッタントはこの両者の境界に位置する。ディレッタントには知識があり、知的探究を好んでいるが、学問的・芸術的共同体の一員とは認められていない。しかし、にもかかわらず、ディレッタントは芸術や学問において創造的でありうる。共同体の一員ではないのだから、その活動はまずは私的なものとして始められる。ディレッタントの重要性は、専門化が進行するに連れて高まってゆく。「ディレッタントは専門家ほど学問分野の境界を真剣に考えないことによって、知のさまざまな領域の文化を結びつける。その限りで、ディレッタントは、作品制作上や認識論的な意味でのディシプリンの無さの特別な形態を特徴としている。」しかし、専門への特化が良しとされる現代において、ディレッタントであることは現実的には避けられるべきものと見なされている。そこで本書では「ディレッタンティズム」と「［天命としての］職業（Beruf）」は結びつきえないものなのかどうかが考察されることになる。<br /><br />タイトルは言うまでもなくマックス・ヴェーバーの『職業としての学問』をもじっている。編者のひとりであるUwe Wirthの論文「ディレッタント的な推測（Dilettantische Konjekturen）」では、冒頭でヴェーバーの同書が引用される。それは写本のある箇所をどう判読するかという一点に全身全霊を賭ける情熱のない者は学問には無縁である、という一節だ。著者が注目するのは、ヴェーバーが職業としての学者に必要不可欠としているこの「情熱的な判読＝推定」である。しかし、情熱とはゲーテやシラーにおいてディレッタントの特徴とされていたものだった。では、ヴェーバーはどんな情熱を良しとするのか。彼の答えは、その情熱が学問の対象に人生を捧げるほどのものであるかぎりでは、というものだ。パッションとしての学問。<br /><br />実はヴェーバーが情熱を位置づけているのは学問の入り口においてである。それは学術的な成果を保証するものではない。そのために決定的なのは「霊感（Eingebung）」である。ヴェーバーはこの単語を「思いつき（Einfall）」と同義語として使っている。その成果が「判読＝推定（Konjektur）」なのだ。<br /><br />「判読＝推定（Konjektur）」はそもそも写本の欠落箇所を埋める要素を推測することを意味した。つまりそこでは、欠落している何かが「いまだ把握されていないもの」から見出されなければならず、欠落した箇所から「いまだ把握されていないもの」が把握されなければならない。そこには占いにも似た営みがある。同じようなダイナミズムは「思いつき」にもある。それは「閃き」であり、雷光のように襲う。C.S.パースもこの閃きに注目し、「abductive suggestion」を「conjecture」と称している。そこにはカイロス的な時間性がある。それはどんな時に浮かぶかわからない。ヴェーバーは、しかし、そうした劃期的な閃きが生まれる背後には情熱的な問いかけの長い時間があるものだと言う。しっかりした仕事の大地の上に立ってこそ、閃きは生まれる──「確かに、つねにそうとは限らないとしても。」<br /><br />この点にディレッタントが関わってくる。ヴェーバーも、ディレッタントの閃きが専門家のそれと同程度の重要性をもつ場合があることを認める。ディレッタントを専門家から区別するのは、しっかりした確実な方法をもたないという点だ。それゆえに閃きはその重要性に見合った展開がなされないで終わってしまう。厳密な方法による検証に耐えられないという点で、それは専門的な知とは見なされない。<br /><br /><blockquote>19世紀の自然科学的な言説についても精神科学・文献学的な言説についても次のことが言える。自身の推測や仮説を方法的に検証できるように表現できる状況にない者、「ディシプリンのマトリックス」の枠内で確実に行動できるすべを知らない者は、専門家からなる学問の世界において、ディレッタントの烙印を押され──排除されてしまうのである。<br /></blockquote>問題は確固たる学問的方法のみが閃きを生むとは限らない点にある。むしろ、誤った前提や偶然でさえもが発見の契機になる。そうした発見をもたらす推測のプロセスと学問的に正当な検証の手続きとは論理が異なる。専門的な方法による検証に応じた問題領域の特殊化、局限化によって生み出されるのがいわゆる「通常科学的パラダイム」である。エルンスト・マッハによれば、「あらゆる職業には固有の概念がある」のであり、その職業の専門家同士でなければわかりあえないとされる。<br /><br />論者はここで、Ludwig Fleckの考察を手がかりに、「相対的ディレッタント」という立場の可能性を指摘する。それは専門家集団の一員なのだが（この立場は「一般的専門家」と呼ばれる）、ある特定の狭い領域については部外者である。この場合、彼／彼女はその特定領域については「相対的ディレッタント」であるということになる。<br /><br /><blockquote>わたしのテーゼは次のようなものだ。「一般的専門家」は、同時に相対的ディレッタントなのだから、外部と内部の境界という特別な立場を有している。この二重の立場ゆえに、彼らは<b>相対的ディレッタント</b>として、（...中略...）二つの特殊化された思考様式を媒介し、状況によっては、思考の「特別な境界領域の様式」を発展させたり試したりできる境遇にある。<br /></blockquote><br />このように境界<b>において</b>、境界<b>と</b>戯れる点にこそ、論者が「ディレッタント的装置（ディスポジティフ）」と呼ぼうとするものの特徴がある。それはディレッタントと専門家とのあいだで展開される、学術研究のポリティクスにおける権力ゲームだ。そこにおいて、真理追求を制度化し専門化することを目指す「真理をめぐる言説」のエコノミーが制御される。このゲームが規律化されることを通じて「専門」という知的領域が形成される。<br /><br />専門家的装置が境界設定による内外の区別の監視に向かうとすれば、ディレッタント的装置は知的空間の開放を志向し、いまだ境界で定義されていない空間内を動き、既存の境界を無視し、あるいはそれらをずらすことを目指す。それはフロンティアの思考だ。ディレッタント的装置は移行の論理であり、非方法的な触診やブリコラージュの論理である。専門家的装置がたどるべき道をあらかじめ設定するのに対して、ディレッタント的装置は知の空間にノマド的運動を導入する。<br /><br />論者は、ヴェーバーが強調したような「方法の堅固な確実性」は、多様化と学際化の今日になお有効だろうか、と問いかける。本書そのものが属する文化科学のあり方への問いがその背景にはある。結論として、ある分野の専門家であったうえで、幅広い領域におけるディレッタント（相対的ディレッタント）となることにより、視野狭窄を回避するというブルクハルトの教えが参照され、「境界上を、あるいはみずからの専門領域の境界を越えて彷徨することへの勇気」こそが学問的な生産性につながると説かれて、この論文は締め括られる。<br /><br />妥当な結論だろうが、穏当すぎる印象が否めない。ディレッタントの立場は孤立や疎外、場合によってはそこに由来する狂気の危険と隣り合わせだからだ（厳密な学としての文献学から逸脱したニーチェや専門家集団の外部におのれの学術領域を形成したヴァールブルク、ついに大学には居場所を得られずに困窮のなかで死んだパースの例）。そんなに呑気な立場ではないのである。「相対的ディレッタントが生産的」という主張も、その生産性は結局のところ、ディレッタント的装置を利用しておのれの刷新を図る専門家的装置の側からの価値評価ではないのか。つまり、最後で説かれる「勇気」とは、あくまで専門家について、限定的に要求される勇気なのである。それが「相対的ディレッタント」であるかぎり、専門家集団から排斥される可能性までは見越していない。学問的な「正気」と「狂気」の「境界」は問題にされていない。<br /><br />ブルクハルトの引用に立ち返ることで論考が終えられていることは示唆的である。それは円熟した知性の教訓として真理を語っている。だが、ブルクハルトが説く中庸の美徳を、ある危険性の回避と読むことも可能だろう。どんな危険性か。それはニーチェが教えている。ヴァールブルクはまさにこの二人の差異についてこう語っていた（拙著『アビ・ヴァールブルク　記憶の迷宮』より）。<br /><br /><blockquote>ヴァールブルクはブルクハルトを古代ゲルマンの女予言者ウェレダに譬える。タキトゥスが『歴史』で伝えているところでは、ウェレダは非常に高い塔のなかに隠れて暮らしていたという。一方のニーチェは、自分の服を引き裂きながら往来を走り、苦悶の叫び声を上げて人びとを従えてゆく古代の預言者（ナビ）である。バーゼルというゲルマン的伝統とローマ的伝統との境界領域で出会ったこの二人にヴァールプルクは、異なるタイプの原始的見者が対立しているさまを見る。ここで問題なのはそれぞれのタイプの見者が「天命（Beruf） 」の与える震撼に耐えられるかどうかである。ニーチェはそれを「叫び（Ruf） 」に変え、その叫び声に対する反響の欠如によって破滅してゆく。破壊の魔の無気味な吐息を感じて塔に逃げ込むブルクハルトと、その魔物と手を握ろうとするニーチェ──<br /></blockquote>「天命（Beruf）としてのディレッタンティズム」──それは学問の生産性のために勇気をもってなされるべき選択などではなく、むしろ宿命であろう。<br /><br />極端な例であることは承知している。このようにぎりぎりの「境界領域」に身を置くことまでは想定しないとしても、この論集そのものはまっとうな文化科学の論文集であり、いささかまっとうすぎて、ディレッタンティズムを感じることはなかった。そもそも、ディレッタンティズムに論文集という形式は馴染まないように思う。ディレッタントがブリコラージュによって制作する以上、それは横並びの平準化には逆らうからだ。<br /><br />翻って考えれば、シンポジウムやワークショップの成果として刊行される論文集の流行は、人文学において一種の平準化装置として機能しているのではないだろうか。本来実利に結びつかないような分野まで、制度的に資金を得やすいテーマ設定（現実的な基盤がない以上、それは往々にして時代時代のイデオロギーに沿ったものでしかない）で論者を集め、さも実体があるかのように研究が蓄積されるという、「専門家的装置」による「真理の生産」。このシステムが、有能な学者を有能な官僚と化し、ディレッタント的な（危険な）「遊び」の余地をむしろ狭めているように思われてならない。<br />]]>
    </content>
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    <title>潜在性と徴候について──あるいは、空想の図書館</title>
    <link rel="alternate" type="text/html" href="http://before-and-afterimages.jp/news2009/2011/12/post-150.html" />
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    <published>2011-12-09T20:56:27Z</published>
    <updated>2011-12-10T07:30:09Z</updated>

    <summary>グンブレヒト氏の著作を取り寄せるついでに買った彼の編著『潜在性──精神科学におけ...</summary>
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        <name>田中純</name>
        
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://before-and-afterimages.jp/news2009/">
        <![CDATA[グンブレヒト氏の著作を取り寄せるついでに買った彼の編著『潜在性──精神科学における盲目の旅客たち』（<a target="_blank" href="http://www.v-r.de/de/Gumbrecht-Klinger-Latenz/t/1001006488/">ドイツ語原書</a>）という本を斜め読み。第２次世界大戦後のドイツ史を「潜伏期（Latenzzeit）」ととらえる視点に触発されて編まれたものとのこと。多くはグンブレヒト氏と同世代の、日本では団塊の世代の執筆陣で、ロジェ・シャルティエ、ペーター・スローターダイク、ホルスト・ブレーデカンプなども。<br /><br />だから、ある種の世代経験、時代経験を背景としつつ、「潜在性・潜伏性（Latenz）」をキーワードに、哲学、文学研究、歴史、美術史まで、幅広い論考を集めたもの。19篇の論考が「解釈学」「詩学」「系譜学」「存在論」の４つに分類されている。<br />]]>
        <![CDATA[「盲目の旅客たち」という比喩はオランダの歴史理論家Eelco 
Runiaの言い方で、潜在性の核心には、現実的な知覚の領域には入ってこず、その位置する場所も同一性も知ることのない、ある物体や物質的対象の空間的
な近さに関する確信があるのだという。それをクルージングの船に乗った、目の見えない乗客に譬えている（盲目でも自分の居場所を感知するといったこと
か？）。「潜伏しているものとは、先行する現在からは消え失せ、しかしまた、一度として知覚可能ではなかったものかもしれない。」このLatenzに英語
で対応する概念が「presence」とされていることを奇異に感じたが、「presence」には「霊気; 幽霊, 妖怪, 
物の怪」の意があるのだった。<br /><br />「潜在性」に関連するのは「気分（Stimmung）」である。予感としての気分が潜在性への確信を生む。グンブレヒト氏は
この「気分」についても最近一書を著わしている。この問題設定がハイデガーの哲学に関連することは言うまでもないし、参照もされるが、必ずしもそこから出
発しているわけではない。とはいえ、可能性と現実、彼方と此処、意味するものと意味されるもの、見かけと真実、透明と不透明といった、ハイデガーであれば
「形而上学的」と呼ぶであろう対立を横断してしまう潜在性というテーマの存在論的アンビヴァレンツが、この哲学者が言うとおり、認識論的な「震撼」をもた
らすことをグンブレヒト氏は認めている。<br />
<br />
彼はさらに、潜在性への関心の由来を、哲学史的に類比を探せば、フィヒテの観念論に対するシェリングにおける「自然」への関心に対応するような、この20
年ほどのあいだに生じた「移動」としてとらえている。そこに作用しているのは時間経験の変化だ。もはや現在はわれわれの背後に消え去ってゆくものとは考え
られておらず、過去の物質的・非物質的残滓が溢れかえるようにしてとどまっている。過去の個人的・集合的記憶は空虚で茫漠としているのに、電子的保存技術
によって、過去そのものは歴然と残り続けている。同時に未来はもはや可能性の地平ではなく、われわれのもとに迫り来る脅威の連鎖として経験されている。
「こう言うことができよう。われわれにとっての現在とは、自分で選んだ未来へと突入するのではなく、未来の到来をそこで待っているような、潜在性なのであ
る。」<br />
<br />
グンブレヒト氏はこうした時間把握を、第２次世界大戦後における「時間の停滞」の経験と関連づける視点を導入する。つまり、今日の潜在性というテーマがも
つ吸引力の直接の前提は、20世紀半ばにおける気分としての潜在性ではないか。言い方を逆にすれば、存在論的曖昧さの現在的状況としての潜在性は20世紀
半ばにおける歴史的気分としての潜在性に遡るのではないか、ということである。そして、論文著者の多くはこの歴史的時期に誕生している。<br />
<br />
グンブレヒト氏のこうした導入を読んで連想したのは、『都市の詩学』で中井久夫氏の概念を使って分析した、都市経験における「予感」「余韻」「徴候」「痕
跡」の諸相だった。とくにグンブレヒト氏らよりも一世代年齢は上だが、イタリアにおける戦後経験──破壊された都市の経験──を根底にもつ建築家アルド・
ロッシが、「Latenzの建築家」として思い浮かんだ。ロッシの建築に特徴的な「静止した時間」の様態は、グンブレヒト氏が記述する時間経験、「時間の
停滞」に通底しているのではなかろうか。『都市の詩学』を出発点に「徴候的知」の系譜をたどることを研究上のひとつのテーマにしてきたが、「徴候」は「潜
在性」と密接に関連している。とすると、グンブレヒト氏が取り組んでいる「潜在性」と「気分」という主題は、中井氏のスキームで解釈し直し、整理すること
ができるのではなかろうか。徴候的知のひとつの典型は「細部」に神を見たヴァールブルクだが、本書でブレーデカンプ氏が展開する「像行為
（Bildakt）」理論で最後にヴァールブルクが言及されていることも示唆的である。<br />
<br />
個別の論考には十分眼を通していない。グンブレヒト氏の着眼点を大きく発展させたものはなく、全体として論点がやや拡散しているようにも思う。ただ、ハン
ス・ブルーメンベルクにおける「空想の図書館」という着想をめぐる記述は刺激的だった。発端は『コペルニクス的世界の創世』に付された小さな註における
「空想の図書館」の歴史に関する記述である。ブルーメンベルクはさらにまた、カントと同時代の科学者ヨハン・ハインリッヒ・ランベルトによる奇抜な提案を
見つける。それは実在しないが存在しうるかもしれないような本の図書館を作るというものだ。ランベルトによれば、このような「あるかもしれぬ」可能態の書物は学
問において、現実に存在する書物と同じ機能を果たしうる。現実の書物の大半が読まれないままになっているという事実を鑑みれば。現実の書物が読まれずにい
ることは、可能態の書物が現実の書物と同等の機能を持ちえたことと等価である。つまり、どんなに真剣な学術的研究にも非現実性が隠されている。現実の書物
が読まれないという事実が、それらを可能態の書物の等価物に変えるのである。<br />
<br />
「現実の書物の大半が読まれないままになっているという事実」の指摘には、個人的な感慨もあって苦笑せざるをえないものの、「空想の図書館」という発想がもつ
魅惑の一端に、この奇想は確かに触れているように思われた。しかしこれは、どんな書物にも別の書物が潜在しているという事態を意味するものでもあるのではなかろうか。さ
らに進んで言えば、書物とはつねに潜在性である。予感であり余韻である。あるいは痕跡であり徴候である。それが現実にどのようなものになるかを誰も予言できない。<br />
<br />
書物がいかに「読まれない」ものかという現実に、ほとんど打ちひしがれるような思いを感じていただけに、「空想の図書館」の幻想が逆に強固な現実性を帯び
て感じられた。そして、自分が書物を書くにあたってつねに「同時代のためにだけ書くのではない」と念じ続けてきた理由もまた、この潜在性に宿るように思わ
れた。「読まれない」書物を書く悲哀とともに、それがまさに「読まれない」、その部分においてこそ宿す潜在性を信じたい──盲目の旅客のように。]]>
    </content>
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    <title>ハンス・ウルリッヒ・グンブレヒト『なぜ精神科学を改革しなければならないのか』</title>
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    <published>2011-12-07T17:42:21Z</published>
    <updated>2011-12-08T07:55:14Z</updated>

    <summary>「ややアメリカ的な問い」という副題がついている。2010年６月８日にオスナブリュ...</summary>
    <author>
        <name>田中純</name>
        
    </author>
    
        <category term="Memorandum" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://before-and-afterimages.jp/news2009/">
        <![CDATA[「ややアメリカ的な問い」という副題がついている。2010年６月８日にオスナブリュック大学で行なわれた講演の記録。<br /><br />グンブレヒト氏は2007年に慶應大学で「大学の人文学に未来はあるか？」という講演をしており、記録が公開されている（<a target="_blank" href="http://lib-arts.hc.keio.ac.jp/journal/cla10.pdf">PDF</a>）。現代ドイツという文脈を離れた人文学の趨勢については、二つの講演は重なる部分が多い。<br />]]>
        <![CDATA[講演の冒頭で「これはマニフェストだ」という挑発的な言い方をグンブレヒト氏はする。米国で教えているという距離を自分自身で揶揄しながら、無責任な
放言を演出する。しかし、結果にはこの講演は、ドイツにいては制度に縛られ、ある程度は自覚しても言説化できない問題を明快に論じた内容になっているよう
に思われた。<br /><br />グンブレヒト氏が大学に籍を置いてからというもの、ドイツの大学が改革に明け暮れぬときはなかった。トロツキーの永久革命の
夢がまるで実現したかのように。この改革の果てに、大学の精神科学はなお生き延びうるだろうか、という問いをグンブレヒト氏は立てる。そして９つの点からそ
れを検討してゆく。<br /><br />最初の三つは歴史的な検証である。まず第一に、19世紀初め、国民文化の過去を知るために中世のテクストを読む過程で、ド
イツにのみ文献学的な読解の技術が生じた。グリム兄弟やロマン派のこの伝統から、ドイツ固有の歴史哲学的な背景をもった文献解釈が発展する。こうした屈折した＝反省的な「国民的」過去への接近方法は、英国やフランス、米国にはなかったものだという。<br /><br />グンブレヒト氏は、フンボルトが大学改革案で
「研究室」と「ゼミナール」について繰り返し語っていること、ギムナジウムと大学を峻別し、知識の伝達のみを行なう前者に対して、後者にはあらたな知識の
創造を求めたこと、そしてそのために、研究室やゼミナールにおける教師と学生の小集団を重視した点に注目する。第三の点については、日本での講演に同趣旨の発言があるので、そこから引用する。<br /><br /><blockquote>セミナーや研究室は、様々な世代の様々な種類の熱意を持った人
たちがお互いを刺激しあうことができる場であり、それゆえ何かを生みだすことのできる場だというのです。教員は学生にプラトンを「教える」としても、教員
が熱くなるところと学生たちの熱くなるところは色合いが違います。つまり、互いの存在の意義は、教員がプラトンについての知識を学生に伝達するという関係
のみにあるのではなく、むしろ相互にインスピレーションを与えることができるというところにある。このように大学は様々な種類の熱意が互いに刺激しあう場
所なのだ、というのです。<br /></blockquote><br />フンボルトによれば、このような環境が保たれるためには、国家は大学を財政的に支える義務がある一方で、そこにおける知的活動に絶対干渉してはならない。国家の要請に応えるような知は、大学が創造するべき真に新しい知ではないのだから。<br /><br />第
二点は19世紀末における精神科学の成立に関わる。技術に転用可能な自然科学の勝利によって、精神科学は差異化の必要を迫られた。ディルタイの解釈学に代
表されるように、精神科学は解釈によって「意味」を追求する学問となることによって、それを果たそうとする。実証的な心理学はそこから排除される。グンブ
レヒト氏がディルタイにおける「解釈」という営みで注目するのは、それが原典そのものに即したオリジナルな意味へと徹底して向かうがゆえに、その目標がし
ばしば「エキセントリックなもの」「自分の生活世界の外部にあるもの」になる、という点である。これはのちの展開に関わる。<br /><br />しかし、この
ようにみずからを基礎づけた精神科学は「誕生のトラウマ」を抱えることになる。そのトラウマとは、現実との絆を喪失してしまうのではないか、という不安で
ある（このあたりについては日本での講演に詳しい記述がある）。要するに、自然科学は感覚を通じた世界認識であるのに対して、精神科学は概念による世界
認識、つまり解釈を扱う、というかたちで自己規定した結果、自然科学的な世界参照関係を捨ててしまうことになり、制限から自由すぎるあまり、自らが曖昧だと感じ
たり、具体性に欠けると感じたりすることになってしまうのである。<br /><br />第三点は20世紀後半における精神科学（世界的には人文学）の流行をめ
ぐっている。グンブレヒト氏は、「誕生のトラウマ」による現実喪失の不安が、極端から逆の極端に揺れ動く精神科学の流行を形成してきたと見る。戦後すぐに
ドイツで「内在的解釈」としてもてはやされたものは、英米圏のニュークリティシズムなどから影響を受けた、実用的な世界からおよそ遠ざかったものだった。
続いて振り子が逆に振れ、数学的に厳密な方法を標榜する構造主義やロシア・フォルマリズムが流行し、現実との接点を求めてマルクス主義が興隆する。すると
今度は、「言語的転回」が訪れ、構成主義、脱構築、ヘイドン・ホワイトらのニュー・ヒストリシズムの時代となる。そのあとにやって来たのが、英国発祥のカ
ルチュラル・スタディーズであり、あるいはアイデンティティ・ポリティクスで、これらも現実との関係の回復をもたらそうとするものだった。しかし、その後は停滞＝不況期が
到来し、過去20年間ほどは新しいパラダイムは現われていない。<br /><br />第四点としてグンブレヒト氏は、精神科学をめぐるこうした歴史のなかでと
くに、「言語的転回」や脱構築、ニュー・ヒストリシズムがどんな外的効果を生じたのかを検討する。これらの動向に内在していた「現実そのものは認識しえな
い」とするような傾向は、米国で批判の対象となり、アラン・ブルームに「ニヒリズム」と呼ばれ、ソーカル事件ではパロディ化された。こうした経緯は精神科
学の傷として、今日にいたるまで長く影響を残している。<br /><br />第五点として叙述されるのは、最も近年における改革の波である「ボローニャ・プロセス」と「<span class="st">エ
クセレンス・イニシアチブ（卓越した大学）」である。このあたりから現在の状況が関わるため、やや詳しく要約しよう。滅多に指摘されないことだが、この二つ
の同時並行にはパラドックスがある。ヨーロッパ圏での大学教育の標準化と相互開放を進めるボローニャが大学を完全に開いて、知の純然たる伝達機関と化そう
としているのに対して、他方では同時にエリートの養成が目論まれているのだから。このエリート主義にグンブレヒト氏は、ドイツの学問の輝かしい時代（20
世紀初頭）を再現したいというノスタルジアを見ている。<br /><br /></span>「<span class="st">エクセレンス・イニシアチブ
（卓越した大学）」によって大学に導入されたのは、精神科学にとっては新しい形態の制度だった。「センター・オブ・エクセレンス（COE）」はミュンヘ
ン、フライブルク、そしてゲッティンゲンにもあるが、高額な不動産を買わない「卓越した大学」はひとつもなかった──それがいったいどんな機能を果たすの
かよく理解することなしに。どの「卓越した大学」にもCOE</span>があり、いたるところに「大学院共同コロキウム
（Graduiertenkolleg）」［「学部卒業の優秀な学生が、博士課程でさらに研究を続けられるようにするために設けられた大学の機関」
「Graduiertenkolleg では、15 ～ 25人の学生が、大学のそれぞれの研究分野において、博士号などの取得を目指す」→<a target="_blank" href="http://tokyo.daad.de/wp/faq-promotion/">参照</a>］がある。どの大学にも共同研究、とりわけ特定研究領域のための組織があり、そして最後に、外部資金獲得の不断の奨励があるというわけだ。<br /><br /><blockquote>わ
たしの見方が正しければ、ここから二つの構造的帰結が精神科学に生じてきた。精神科学に対する助成の構造形態が、今日ほど自然科学に対するそれに接近させ
られたことは、いまだかつてなかったとわたしは思う。特定研究領域は長い間、自然科学のみに向けた助成制度だった。わたしはたまたま、当時ボーフムで教え
ていたために、精神科学で最初の特定研究領域のメンバーだった（SFB19「19世紀における知識と社会」）。そしてそこでは、自然科学から「ネットワー
ク化（Vernetzung）」のイデオロギーと自己規律が輸入された。わたしたちは際限なくネットワーク化のディスカッションに時を費やし、あらゆる催
しで、自分たちがどれほどインテンシヴにネットワーク化されているかを示さなければならなかった。そして、今日になってわたしは、これはそもそも本質的に
精神科学に適した研究形態なのだろうかと自問している。</blockquote><br />挑発的な言い方と断わったうえで、グンブレヒト氏は、今日のド
イツの少なくとも「卓越した大学」におけるほど、精神科学に資金の投入されている場所も時代もほかにない、と言い切る。しかし、それが必ずしも精神科学に
とって良い結果をもたらしているわけではない。精神科学に資金提供が不足しているという嘆きは、だから、グロテスクであり、自分の大学（スタンフォード大
学）で学長に精神科学の特定研究領域の設立を提案したら、精神病の緊急病棟にすぐさま送られるだろう、とまでグンブレヒト氏は言う。<br /><br />続
く第六の点として、「エクセレンス／ボローニャ」という二重の改革の波に対して、可能な構造的対抗としてありうるのは、「フンボルト的ゼミナールの現前の
文化」ではないか、とグンブレヒト氏は示唆する。なぜなら、ボローニャ・プロセスが目指すインテンシブな知識の提供という方向が徹底されれば遠隔教育に帰
結せざるをえないからだ。では、精神科学における「研究」という、もうひとつの側面ではどうだろうか。この問いが次の第七の項目で取り上げられる。<br /><br />そ
もそも精神科学固有の社会的機能とは何か。グンブレヒト氏はそれを四点で示す。１．フンボルトの理念にあった「革新的知の生産」、２．これもフンボルトが
堅持したゼミナールという形式、３．解釈が単にもっともらしい意味のみならず、現在の次元を越え出てエキセントリックな状況にまで達する可能性、４．二ク
ラス・ルーマンが指摘した次のような理念──「システムとしての学問は、他のあらゆる社会システムとは対照的に、複雑性を還元するのではなく、つまり、問
題を無条件に解消してしまうのではなく、複雑性を生み出し、複雑性を高め、世界をより複雑にするのである」。ルーマンは「問題を解くのではなく、問題に執
着し、問題を大きくすること──そのようにしてこそ、精神科学を実践する価値があるのです」と語ったという。<br /><br />では、なぜ世界をより複雑にす
ることが重要なのか？　それによって、起こりうるかもしれない変化の可能性が創り出されるからだ。複雑性を増すことで、社会はよりフレキシブルになる。グ
ンブレヒト氏は複雑性を高める精神科学の思考を「リスクのある思考」と名づける。それは日常的な実践では用いられない思考である。ここで二つの例が挙げら
れているが、これも日本での講演と同じなので、そこから引こう。<br /><br /><blockquote>さて、想像して
みてください。この講演の後、あなたはひどい腹痛に襲われる。はじめは講演のせいだと考えるけれども、そうではない。医者に行くと、こう言われる。石井さ
ん、虫垂炎ですね、外科に行ってください。そこで外科に行くと、明日の朝手術しようということになり、朝になると外科医から次のように言われる。石井さ
ん、おめでとうございます。あなたは、私が新しい方法で虫垂炎の手術をする患者の第1 
号ですよ。あなたはいやだと思う。リスクを伴う考えがあなたを用いて実践されることになるからです。技術・学術の革新は進んでほしいけれども、自分がその
外科医の実験台になるのはいやだ。そこであなたは、臨床研究と基礎研究というものがあって欲しい、つまりリスクを冒すことができる特定の制度的な空間が別
に存在して欲しいと思うのです。日常的な制度の中でリスクフル・シンキングが横行するのは喜ばれません。リスクというものは日常的な場においては好まれな
いものであり、リスクを冒せる制度的な場がそれとは別に求められるのです。<br /></blockquote><br /><blockquote>さて、2
 番目のより高級な例です。1988 年にジャック・デリダが客員教授として初めてドイツを訪れた際の話です。1988 
年は、マルティン・ハイデガーの伝記的事実をめぐって人文学界に世界レベルの議論が巻き起こった年です。ご存知の通り、この偉大なドイツの哲学者は
1945 年ナチの終焉までその党員でもあり、ナチの一員としてフライブルク大学の総長を務めていました。デリダは、ハイデガーが20 
世紀で最も偉大な哲学者であると、ちらりと口にしました。私にはこの意見が正しいかどうかわかりませんが、ともかく彼はそう言ったのです。すると、ある学
生が質問しました。「デリダ先生、ハイデガーが20 
世紀で最も偉大な哲学者だなんて、よくそんなことが言えますね。ナチのイデオロギーに加担していたことをご存知ないのですか？」と。それに対するデリダの
答えは、リスクフル･シンキングの見事な例となるものでした。その答えを思い出すと私は鳥肌が立ちます。なにしろ私は1948 
年のドイツに生まれたのですから。とは言え、デリダの答えはまさしくリスクフル･シンキングの偉大な手本だと思います。彼の答えはこうでした。「私はもち
ろんハイデガーがナチだったと知っています。誰もが知っていることです。問題はそこではないのですよ。問題は、果たして彼が、ナチスのイデオロギーに与す
ることなしに20 
世紀で最も偉大な哲学者になり得たかどうかということなのです。」私は、ハイデガーがナチのイデオロギーに加担しなくても偉大な哲学者でありえたはずだ
と、そして、おそらくは加担していなければもっと偉大な哲学者だっただろうという答えを今日でも望んでいますし、そう信じています。けれども、私が主張し
たいのは、社会の中でこのような質問が許される場がひとつあるべきだということです。このような問いは、公共の場ないしテレビにはむいていないものだと思
います。高校でなされるべき質問でもないでしょう。唯一、この問いを発することが可能な場所が大学であり、その中でも人文学なのだと思います。<br /></blockquote><br />ちなみにドイツでの講演では、「ハイデガーはハンナ・アレントと結婚し、亡命しなければならなくなって、米国でもっと良い哲学者になった」という、リチャード・ローティが考えたフィクションが紹介されている。<br /><br />こうした「リスクある思考」が語られるにふさわしいのは、大学のゼミナールの会話のみであろう。だが、とグンブレヒト氏は続ける。「それはまた、孤独な状況においても起こりうるだろう」と。<br /><br /><blockquote>ほ
とんどタブー視されている沈思という概念を、精神科学のために再び強化することに、わたしはいささかの関心がある。もちろんわたしは、精神科学がつねに
「敬虔な」沈思のなかで完遂されなければならないなどと考えているわけではない。しかし、精神科学はひとが沈思のための時間を自分でもてるような場でなけ
ればならない。<br /><br /></blockquote>ここから二つの制度的な帰結がもたらされる。まず第一に、精神科学は自然科学に対して、より大きな距離をもつべきである──その差異によってこそ生産的であるために。精神科学者が行なうのは「リサーチ」ではない。精神科学の「研究（Forschung）」とはむしろ沈思の謂いであろう。<br /><br /><blockquote>そ
して第二に、次のような問いを立ててみるべきだとわたしは思う。本当にこれほど多くの巨大研究と共同研究が、これほど多くの外部資金が──などという声を
聞きたくない気持ちはわかるが──、そしてネットワークが、精神科学が積極的な成果を目指すために必要なのだろうかと。<br /></blockquote><br />リオタールが言ったように、われわれに残された唯一の可能性が革命的であることだとすれば、必要なのは、あらかじめ定められていない目的のために集中して、対話のなかで世界をより複雑にすることなのだ。<br /><br />第
八点ではさらに具体的に、精神科学の側から大学政策についてなされうる提案が次のように述べられる。第一に、精神科学は共同研究やネットワーク化を今後放棄
すること──他の学者と対話することで、いずれにせよネットワークは出来るのであり、そのために「ネットワーク化プログラム」は必要ない。第二に、大学院共
同コロキウムと大学院生への助成金を、将来大学教師として組織が彼らを吸収できる規模にまで縮小すること。これは学生の将来を考えた社会的責任の問題としてであ
る。<br /><br />グンブレヒト氏は最後に、精神科学なしでは大学は専門化した知識伝授とテクノロジーのみの場となってしまい、知的な場所ではなくなる
だろうと言う。そこが知的な場であり続けるために、どの大学にも必要な最小限の教師陣とは、二人の哲学者、二人の言語学者、四人の歴史家、そして三人の文学研究者である──この、本気ともアイ
ロニーともつかない、古典的で、かつ、極限まで縮小された大学における精神科学のヴィジョンによって、グンブレヒト氏の講演は締めくくられる。<br /><br />歴史的な回顧はおおよそ妥当だろうし、現状批判の多くも、似たような日本の状況を顧みれば首肯できる。ゼミナールでのみ語られる「リスクある思考」とは、人文学のある種の密教化であろうか。スタイナーの書物が思い起こされる。人文学における知の伝承は、結局はこのかたちに行き着くしかないのかもしれぬ。<br /><br />ただ、最後で示されるヴィジョンはあまりに後ろ向きで退嬰的過ぎないか。「リスクある思考」、つまり、「危険な思考」が実体としては語られない（講演では語られえない）ための隔靴掻痒の印象だろうか。共同研究もネットワーク化も大勢の大学院生も要らなければ、人文学に巨大な資金など確かにまったく不要だろう。本質に向かってそぎ落としてゆけばそうなる。そして、そこには一理あって、ほとんどの提案に賛成したくなる。<br /><br />いや、むしろ、最後のヴィジョンを帰結として示すことが、グンブレヒト氏の「リスクある思考」というわけか。途中の提案にすべて同意すれば、結末としての「リスク」はこうなるのだと。しかし、そのリスクを含めて、一度は考えてみるべき挑発的な提案ではある。<br /><br />これとは逆に、日本の大学が世界のなかで置かれている状況から演繹して、人文学の生き残りの道を模索する動きはいろいろあったし、これからもあるだろう。その場合、状況論的に受け入れざるをえない前提をひとつずつ承認してゆくと、答えは決まってきてしまう。その手の議論に閉塞感を感じていたので、グンブレヒト氏の、むしろ反時代的な提案には、思わず共感した。<br /><br />ドイツでは、ディルタイが19世紀に直面したような自然科学の圧倒的勝利とそれに対抗した精神科学の純粋化に対応する営みを、今現在のコンテクストにおいて別の次元で展開しようとする試みとして、自然科学と精神科学の越境なり融合の方向性を探る、ベルリン文学・文化研究センターなどの活動が盛んだ。ただ、このフレーム自体が政策的な要請に合わせた、グンブレヒト氏が批判するような「精神科学の自然科学化」の一環と見えないこともない。ある種の官僚的発想に精神科学の問題設定や研究内容そのものが侵食されている側面を感じてしまう。こうしたプロジェクトを進めるには、そうした発想に対する強靱な批判の意志が必要だろうし、自然科学の「意味」をどう「解釈」して、エキセントリックな経験にまでもち来たらせるかという徹底性が求められるのではないだろうか。<br /><br />グンブレヒト氏が言っているのは要するに、コアの部分にまで戦線を縮小し、出来る限り撤退して、精神科学固有の価値（それは固定した価値ではなく、「革新的な知」を創造するという運動の価値）を守れという提案である。背後には制度的な圧力に対する防衛が迫られているという切迫した事情がある。大学の制度的変化に応じた精神科学の変質によってすべてを失うか、それとも「リスクある思考」が息づくことのできる空間をわずかでも残すか──この二者択一しかない、という切羽詰まったヴィジョンだろう。危機感はそれだけ深いと言うべきか（しかし、社会全体にとっては所詮、コップのなかの嵐である）。<br /><br />心情的には非常に理解できる。自分の課題としては、グンブレヒト氏がフンボルトの理念を検証し直したように、日本語において形作られてきた人文学や人文知的な思想の生成過程やその教育の理念を通して、この言語における「人文学」（とりあえずそう呼んでおく）の歴史と限界、可能性を改めて見直さねばならないのだろう。それは「研究」ではなく「沈思」の対象として。なぜならこれは、あれこれの学問共同体（ネットワーク）で議論するための「リサーチ」ではなく、個人としての生き方に関わる問いだからだ。<br />]]>
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    <title>鳥人間の影──ジルベール・クラヴェル『自殺協会』</title>
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    <published>2011-12-04T10:02:13Z</published>
    <updated>2011-12-04T10:17:31Z</updated>

    <summary> 『UP』12月号に寄稿しました。連載「イメージの記憶」の第26回です。 書誌情...</summary>
    <author>
        <name>田中純</name>
        
    </author>
    
        <category term="Essays" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://before-and-afterimages.jp/news2009/">
        <![CDATA[ 『UP』12月号に寄稿しました。連載「イメージの記憶」の第26回です。<br />
書誌情報は<br />
田中純「鳥人間の影──ジルベール・クラヴェル『自殺協会』」、『UP』470号（2011年12月号）、東京大学出版会、2011年、59〜65頁。<br /><br /><blockquote>『自殺協会』では、古代エジプトの霊魂観を背景とするこうしたアルカイックなシンボリズム、中世ヨーロッパの「死の舞踏」の虚無的なグロテスク、そして、この協会が位置する建物のエレベーターや開頭手術に使われる歯車装置といった機械のモダニズムなどが奇妙なかたちで融合している。現代的な合理性が古代的な想像力によって幻想的に、しかし極度に乾いた筆致で歪曲された『自殺協会』の世界には、カフカが『審判』で描き出した裁判所の官僚機構や『流刑地にて』の処刑機械を思い起こさせるものがある。自殺協会のシステムそのものが、ひとつの「独身者の機械」（ミシェル・カルージュ）をなしている、と言ってもよい。そして、クラヴェルはこの機械を、死を変容させることで生き延びるためにこそ必要とした。（...中略...）<br /><br />このように『自殺協会』においては、古代エジプトの死生観をはじめとする神秘主義的な形而上学と世界大戦を風刺したアイロニカルな舞台設定、シュルレアリスムを先取りする幻想性とカフカを思わせる謎めいた寓話性、イタリア語の背後にドイツ語を潜ませた多重言語による、非常に古風でありながら前衛的な文体、そして、デペロによる挿絵や口絵の機械人形たちが跋扈する悪夢のような異世界のヴィジョンといった種々様々な要素が相乗的な効果を上げている。この「独身者の機械」は、イタリア語への翻訳を通じて多声化するとともに、新たな「技師」デペロの参加によって、テクストに従属しない視覚的イメージという強力なダイナモを備えることになったのである。<br /></blockquote>



    
     <div><br /></div><span class="mt-enclosure mt-enclosure-image" style="display: inline;"><a href="http://before-and-afterimages.jp/news2009/fig01.jpg"><img alt="fig01.jpg" src="http://before-and-afterimages.jp/news2009/assets_c/2011/12/fig01-thumb-250x352-392.jpg" class="mt-image-none" style="" height="352" width="250" /></a></span><div class="asset-content entry-content">

        <div class="asset-body"></div></div>]]>
        
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    <title>Lessons of the Masters</title>
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    <published>2011-12-03T21:17:32Z</published>
    <updated>2011-12-06T08:43:41Z</updated>

    <summary>高田康成氏による邦訳を読む。こなれた達意の訳。古代を中心に論じた第一章がとくに興...</summary>
    <author>
        <name>田中純</name>
        
    </author>
    
        <category term="Memorandum" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://before-and-afterimages.jp/news2009/">
        <![CDATA[高田康成氏による<a target="_blank" href="http://www.amazon.co.jp/%E5%B8%AB%E5%BC%9F%E3%81%AE%E3%81%BE%E3%81%98%E3%82%8F%E3%82%8A-%E3%82%B8%E3%83%A7%E3%83%BC%E3%82%B8%E3%83%BB%E3%82%B9%E3%82%BF%E3%82%A4%E3%83%8A%E3%83%BC/dp/4000234994">邦訳</a>を読む。こなれた達意の訳。古代を中心に論じた第一章がとくに興味深い。刺激的だったのは、大学で知を商売にしているわれわれはソフィストの末裔ではないか、という趣旨の指摘だ。テクスト分析や引用といった手法のような体系的教育の習慣を始めたのはソフィストだった。知に対する対価というかたちで報酬を得たのも彼らである。<br /><br /><blockquote>まさにソフィストの時代以来、哲学の大半は、大学に類する組織において、公の専門職の資格をもった人々によって「牛耳られて」おり、そしてこの哲学という仕事にたずさわる者が給料を期待し、また実際受け取ってしまっているために、われわれはこの職業に内在する興味深い問題［真理や知に対する謝礼をめぐる問題］を見過ごしてしまっている。<br /></blockquote><br />こうした組織に対する反抗者がショーペンハウアー、ニーチェであり、ウィトゲンシュタインもこの状況を胡散臭いものと見なし、スピノザも距離を置いた。「真の師は、給与は雀の涙ながら、その精神性において托鉢修道僧に似るものとなる。（...中略...）さらに現実に即して言えば、ものを考え問いを発することを仕事とする教師は、天職とは直接的に関係のないしかたで、日々の生計を立てることになる。靴職人だったベーメ、レンズを磨いたスピノザ、困窮にあえいだパース、事務員だったカフカやウォレス・スティーヴンズ、作家だったサルトル･･･。<br /><br />ソクラテスの教育はいわゆる教育の拒否であったという指摘。なぜなら「無知の知」へと対話者を導くのだから。それはウィトゲンシュタインにも通じる。彼らの「意図を理解した者は誰でも独習者になるのだ」。人の心のバランスを乱してやまず、理解したと思った瞬間に、その理解を砕くような「神話」や「喩え話」の比喩構造。<br /><br />注目すべき一節──「地獄という名の幼稚園──幼児性とは地獄落ちの常態に等しい」（70頁）。とするならば、インファンスは地獄に堕ちている。パウル・クレーの《幼稚園＝地獄の天使》。<br /><br />ダンテとウェルギリウス、ファウスト博士をめぐる問題圏などにいたるまでの論述には緊張感を感じるのだが、それ以降（第三章後半のフッサールとハイデガーの師弟関係以降）はやや足早になってしまう。古今東西にわたる途轍もない教養がうかがわれることは確かだし、今日的状況への目配りもあって触発はされるのだが。講演を元にしていることに由来し、また、優れた翻訳の賜物でもある、淀みなく流麗な語り口そのものが、結果的には自分にとっての壁になる。スタイナー自身のこの「教え」はどのような「師」から継承され、どんな「弟子」に伝えられようとしているのかが見えない。それともこれは所詮、師弟関係とは関わりのない、顕教的な表向きの言説なのだろうか。<br /><br />密儀（密教）と顕儀（顕教）の区別、および、前者は師から弟子へと口伝でしか伝えられないといった事態について、本書では何度か言及される。スタイナーの論述が旋回する核心となる、エロスの問題もまたそこに関わっている。それゆえ、この枠組み内部での口伝の重要性は疑いようもないが、しかし、師の教えがテクストというかたちで漂流し、まったく予想もしなかったところに弟子（私淑する者）を見出す可能性はつねに残されるだろう。「独学者」の存在がここに浮上してくる。<br /><br />著者も触れているように、劃期的な発見はむしろ、師弟関係の外にいるディレッタントやアマチュアによってなされることが多い。創造的なひらめきという「狂気（マニア）」は教えられるものではない。師にできるのは、その直前まで弟子を導くこと──「無知の知」に直面させること──にとどまるだろう。<br /><br />本書を読んで最後に想起したのは、『日本浪曼派批判序説』増補版「あとがき」（未來社、1965）で、ジョルジュ・ソレルの言葉「私は、私自身の教育のために役立ったノートを、若干の人々に提示する一人の autodidacte である」を引いて自分自身をも「autodidacte」、すなわち独学者と規定した橋川文三だった。鶴見俊輔はこう証言している。<br /><br /><blockquote>あるときなんか、丸山さんの自宅を訪ねたら私の先客に橋川文三がいたね。そのとき丸山さんは、こういうふうに言うんだ。「これは橋川君。評論家だ」って。彼は「自分の弟子だ」とかは、けっして言わないんだ。──<font style="font-size: 0.8em;">鶴見俊輔・上野千鶴子・小熊英二『戦争が遺したもの──鶴見俊輔に戦後世代が聞く』（新曜社、2004）</font><br /></blockquote>ここに師弟関係はなかったと考えるべきなのだろうか。それとも双方の側からする別離があったと考えるべきなのだろうか。<br /><br />ソフィストの末裔であることに甘んじるのでなければ、どんな場所からもアクセス可能な、知識の公然たる技術的世俗化が果てしなく進行しつつある状況下だからこそ、どのような形態の密儀が、隠者としての托鉢修道僧の住み処が、独学者の共同体が、今この時点で可能だろうか。<br />]]>
        
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    <title>「じっくり／あとで考える（nachDenken）」──「ドイツ語による精神科学とその言語の国際的な影響史」をめぐって</title>
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    <published>2011-12-03T09:00:42Z</published>
    <updated>2011-12-04T22:42:07Z</updated>

    <summary>nachDenken. Internationale Wirkungsgesch...</summary>
    <author>
        <name>田中純</name>
        
    </author>
    
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    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://before-and-afterimages.jp/news2009/">
        <![CDATA[<a target="_blank" href="http://www.zfl-berlin.org/veranstaltungen-detail/items/zur-internationalen-wirkungsgeschichte-deut.html">nachDenken. Internationale Wirkungsgeschichte der deutschsprachigen Geisteswissenschaften und ihrer Sprache</a><br /><br /><blockquote>これもベルリン文学・文化研究センターのシンポジウム。３日間の日程だが、今日は行かないので、以下が備忘のためのメモ。非常に長文です。<br /></blockquote> ]]>
        <![CDATA[趣旨は次の通り。<br /><br /><blockquote>学術出版や対話におけるドイツ語ないし英語の使用をめぐる現今の激しい議論は、諸々の精神科学
［Geisteswissenschaft］や文化科学に関わってくるのは、それらの対象が特別な仕方で主として言語的なステータスをもつことのみによるのではなく、それらの概念、方
法、思考様式が言語から切り離せないからでもある。<br /></blockquote><br /><blockquote>グローバル化と伝統という対立す
る論拠の狭間で硬直している現在の賛否両論を超えるためには、議論のための別の土俵を開拓することが妥当であろう。つまり、どのような特殊な認識方法やど
のような解釈学的、文献学的、概念史的、歴史的ないしイメージ学的理論が、いったい学術言語としてのドイツ語の放棄によってとりわけ失われたのか、という
点である。日増しに国際化してゆく研究環境のなかでただ消えゆくがままにするべきではない、ドイツ精神科学の学問史に由来する認識論的可能性というものは
存在するのだろうか。そこで問題となるのは、国際的学術においてドイツ語の精神科学が占める過去および将来の地位への問いである。<br /></blockquote><br />この目的設定のもと、多くは「ドイツ精神科学」（複数）の歴史的な回顧が発表の中心テーマとなっている。個別のテーマを列挙しておこう。<br /><br /><blockquote>コー
ラン研究における歴史主義、美術史における多言語使用、亡命音楽学者のキャリア、解釈学のパラダイム、米国におけるディルタイ受容、米国におけるアウエルバッハ受容、19世紀ロシアにおける学術言語としてのドイツ語、フロイトとVictor 
Klempererの実践における学術言語としてのドイツ語、1920-38年の中東欧知識人による精神分析的言語研究、米国におけるドイツ宗教研究、ブ
ラジルにおけるドイツ語の社会哲学の受容、ラインハルト・コゼレックをめぐって、ドイツ語における概念形成の可能性（神秘的な単語結合）、プログラムとし
てのバビロンの「固有概念性」（ドイツのアッシリア学におけるメソポタミア文化の「固有概念性」をめぐる議論？）、ラヴジョイとホイジンガをめぐる観念史
の思考様式。<br /></blockquote><br />めくるめく多様性で（しかし、注意して見れば比較的周縁的な話題も多く、「精神科学」の定義にもよるが、哲学のほか、フランクフルト学派なども正面切っては扱われていない）、これをすべて消化した議論が何を生み出すのかは、成果の報告を待ちたい。ここでは全体の傾向と今後の趨勢に触れたSigrid Weigelセンター長の導入と二つの講演に絞る。<br /><br />Sigrid Weigel (ZfL): Erbschaften und Potenziale. Zu den zwei Seiten der
deutschsprachigen Geisteswissenschaften<br />ヴァ
イゲル所長の発表は「遺産と可能性──ドイツ語による精神科学の二面性について」と題されている。「遺産」をめぐっては、ドイツ精神科学成立の諸条件の歴
史的回顧による反省的な総括がなされた。核心にあるのは「遅れてきた国民」（プレスナー）であるドイツにおける「遅れ」である。学術言語としてのドイツ語
が形成された18世紀、多くの言葉があらたに生み出されねばならなかった。その際にドイツ語に生じた特殊な条件をめぐってはアドルノが引用された。その部
分を原文から引く（発表で引用された部分に忠実に対応するものではなく、厳密な訳でもないことは承知願いたい）。<br /><br /><blockquote>ラ
テン化としての文明化がドイツにおいては半ばしか成し遂げられなかったことは、言語もまた証言している。ガリアとローマの諸要素がきわめて早く徹底的に入
り交じったフランス語においては、外来語の意識がほとんどまったく欠如している。アングロサクソンとノルマンの言語層が重なり合っている英国では、アング
ロサクソン的要素が古風で具体的な、ラテン語的要素が文明的で新しい性格を表わすという言語的二重化への傾向は存在しているとはいえ、後者がきわめて広く
普及しており、さらに歴史的な勝利を重ねてきたため、どんなに敏感なロマン主義者によっても、それらが異質なものと感じられるようなことはまずない。これ
に対してドイツでは、ラテン語的文明的な構成要素がより古い民衆語と融合せず、学者の教養と宮廷のしきたりによって、むしろ後者から区別されており、外来
語は同化されずに目立ち、それらの言葉を熟慮して選ぶ著述家たちに、ベンヤミンが一つの外来語という「銀製の肋骨」について語ったときに「著者はそれを言
語の肉体に挿入する」［『一方通行路』より］と描写したようにして、提供されるのである。その際、非有機的に見えるものは、言うまでもなく実際には単に歴史的な証拠、あの同一化
の失敗の証しに過ぎない。こうした異質性は、ただ単に言語においてのみ、悩ましいもの、ヘッベルの言う「創造のための設計図／裂け目（Riß）」なのでは
なく、現実においてもまたそうなのだ。こうした側面において人はナチズムを、ドイツの遅れた市民的統合を事後的に無理矢理実現しようとした、暴力的で遅れ
た、それゆえに毒された試みと見なすことができよう。どのような言語も、復古的な教説が説きたがるように古き民衆語とてもまた、有機的で自然なものではな
い。しかし、文明化において先進的な言語的要素のいかなる勝利においても、より古くより弱いものに対してなされた不正の幾ばくかが沈殿している。<br /></blockquote><br />ア
ドルノも指摘する「遅れ」、遅れてきた国民、遅れてきた言語だからこそ、その遅れや欠如が優越性へと転化されて「文化的国民
（Kulturnation）」としてのドイツ（哲学者と詩人の国！）という理念が形成される（ディルタイが参照される）。ドイツの精神科学はこの「文化
的国民」の理念と対になる、英仏とは異なる特質をもったものとして自己形成されてきた。<br /><br />後半の可能性（ポテンシャル）については、言語使
用における「非一体性」、つまり、二言語、多言語における思考が強調された。諸言語の中間地帯（Zwischenraum）における思考の可能性である。
そこに思考の創造性は宿る。例として挙げられたのは、ハンナ・アレントにおける英語とドイツ語による著述である。アレントの英語は「劣悪な英語」と非難さ
れて理解されないことも多い。しかし、彼女が英語で書き、さらにそれを自分で改めてドイツ語にしたテクストの比較から見えてくることは、二言語、多言語で
書くことの可能性である。オリジナルなドイツ語の思考があって、まず英語で書くのではない。アレント独自の思考はその二言語の狭間で生まれている、とヴァ
イゲル氏は見る。「外来語（Fremdsprache）」のその「異質な（fremd）」他者性を通じた思考が問題なのだ。ヴァイゲル氏自身、英訳された自分の著書を読んで、別の思考の可能性に気づかされたという。<br /><br />質疑でも強調
されたのは、18世紀に学術言語としてのドイツ語が形成され始めて以来の、「ラテン語／民衆語」という二項対立のみにはとどまらない多言語性
（Mehrsprachlichkeit）であり、多文字性（Mehrschriftlichkeit）である。同質性（Homogenität）や同質
化に逆らって多言語において思考することによる自明性からの脱却。ベンヤミン研究者であるヴァイゲル氏は、ベンヤミンのなかにある神学／マルクス主義と
いった異質性の多様さを指摘する。<br />
<br />
ドイツ精神科学没落の歴史も語られた。20世紀初めには国際的な学術のノーメンクラトゥーラが存在し、ドイツの精神科学はそこで大きな勢力だった。しか
し、1914年の第１次世界大戦勃発以降、ドイツ精神科学に対する一種のボイコットが生じ、学術言語としての英語の飛躍的な上昇が起きる。ナチズムの支配
と第２次世界大戦の敗北、その間のユダヤ系を中心とする知識人の亡命はドイツの学問の凋落にさらに拍車をかけた。<br />
<br />
なお、フランスの人文学が経験主義的、統計的手法であるのに対して、ドイツ精神科学はこうした傾向について「反フランス的」であった点に特徴がある、という指摘も付記しておきたい。<br /><br />ヴァイゲル氏はアレントをめぐって、この会議と同じテーマを特集した、ベルリン文学・文化研究センターの雑誌『Trajekte』<a target="_blank" href="http://www.zfl-berlin.org/trajekte-detail/items/trajekte-23-anderswo-deutschsprachige-geisteswissenschaften.html">最新号（23号）</a>に短いテクスト（書籍所収予定論文の一部）を掲載している。アレントが英語の自著をドイツ語に訳すような自己翻訳について、ヴァイゲル氏はそこで「自己翻訳の事後性」を強調する。精神分析が夢について言うように、「オリジナルなき翻訳」こそが問題であるというわけだ。自分が使いこなせない言語がもたらす不確かさ、多義性や単語の音感の差異に対する感覚の相対的な欠如を彼女はそこで「異言語の文化的無意識」と呼ぶ。そして、いわゆる母語による自己翻訳の過程を精神分析的な意味での「徹底操作」に譬える。<br /><br />論理は明快である。なるほどそうだろう。アレントの著作に即した分析の正当性はこれだけでは判断できないが、精神分析のスキームに沿えば、わかりやすい話ではある。しかし、だからといって、では、人文学に関わる者は皆、まず外国語で書いてから自己翻訳しましょう、という話ではあるまい。そもそも、他者の言説に分析的に向かい合って自らの言語でそれを論述するとき、ひとはつねにこの種の徹底操作を程度の差はあれ強いられるのではないか。なぜならそれは、他者の言語を通過して自分自身の言語に還る運動だからである。だから問題は、あれこれの既存の外国語で書くことではない（そうした外国語で書くことの実際的な効用をもちろん否定するものではない）。むしろ、自らの固有言語と思っていたものの内部に異質な外国語を発明することであり、いつの間にかそんな外国語で書いてしまっていたみずからを発見することのはずだ。<br /><br />Michael Hagner (Zürich): Monolingualismus, Hyperprofessionalität und die Krise
der Urteilskraft<br />科学史家ハグナー氏の講演は「単言語主義、過剰な専門性と判断力の危機」と題されている。彼は脳科学の歴史についての著書があり、優れた学術的散文の著者に与えられるジークムント・フロイト賞の受賞者（2008年度）。<br /><br />ハグナー氏は英国の歴史家ピーター・バークの著書『文化史とは何か』において、20世紀後半のドイツの文化史に関する記述がきわめて不当であることを指摘する。この講演では、科学史という立場から、自然科学と文化科学という「二つの文化」がドイツにおいてどのような関係にあったがたどられてゆく。そこでとくに注目されたのが、ローボルト社から出版された「ドイツ・エンサイクロペディア」というシリーズである。編者はイタリアの哲学者Ernesto Grassi。「二つの文化」の両者をともにテーマにしたこのシリーズはとくに1950年代に非常に良く売れたという。<br /><br />その著者のひとりでもある物理学者ヴェルナー・ハイゼンベルクにハグナー氏は注目する。ハイゼンベルクが体現していたのはドイツ的な「自然科学的教養」だった。それは人間そのものへと向かう哲学的な思索である。ドイツの科学思想をこうした理念を求めるハイゼンベルクに代表させる一方で、ハグナー氏はその対極に位置する存在を、技術を志向して物理学を純粋化する米国のオッペンハイマーに見る。ドイツでは物理学者自身が人文主義の伝統の下にあった。そして、自然科学においては実は1950年代半ばから60年代半ばまでドイツ語による研究の興隆が存在したという（この点はヴァイゲル氏の発表における第２次世界大戦以降の精神科学の衰頽とは事情が異なる）。<br /><br />しかし、こうした興隆は1970年代には終焉を迎え、ハグナー氏の専門である医学において、1980年代以降は教科書はほとんど英語になってゆく。科学者のなかにはかつての伝統を継承するカール・フリードリヒ・フォン・ヴァイツゼッカーもまだいたが、これは例外的な存在だった。ハグナー氏自身は1980年代終わりにアングロアメリカンの研究環境に入る必然性を認識したという。<br /><br />講演ではとくにここ15〜20年における科学の「過剰な専門化」と小さなコミュニティ内部での閉鎖的な自己言及性と異質な思考様式に対する無関心といった一連の傾向と、単一のリンガ・フランカ（要するに英語）が絶対化される単言語主義の横行との併行現象が指摘された（あくまで併行であって、因果関係を主張するものではない）。過度の専門化によって形成される学術コミュニティは標準化の結果としてきわめて安定している（クーンの言う「通常科学（normal science）」）。単言語主義はある種の検閲として機能することもある。結果、この両者は判断力の危機をもたらしているのではないか、というのがハグナー氏の問題提起と理解した。<br /><br />もとより、自らの母語の繭の内部に閉じこもるようなことはもはや許されず、英語で発表するという必然性は受け入れるにしても、精神科学にとって言語の重要性は言うまでもない。過剰な専門化と単言語主義の問題点は、いずれの趨勢も、専門家のみに向けて語るところにあるとハグナー氏は指摘する。精神科学はいわば顕教的な公の言説と専門家を相手にした密教的な言説との二面性を備えなければならない。このあたりはフロイト賞受賞者として、単に学界のみならず、一般読者にも届く学術的言説を残してきた人物ならではの発言だろう。<br /><br />ただ、学術的言説の政治学としては、米国発の英語雑誌に発表したほうが被引用数は多くなり、ヨーロッパの英語雑誌に発表した場合とは異なるなどといった「インパクトファクター」をめぐる格差は歴然と存在している。つまり、単に発表言語のみが問題なのではなく、こうした媒体の力関係やそれをもたらす評価システムの「政治」が現状と今後の趨勢に強く作用しているということである。<br /><br />この問題に関するハグナー氏の基本的な見解はフロイト賞受賞時の挨拶ですでに示されており、その抜粋は新聞記事（<a target="_blank" href="http://www.nzz.ch/nachrichten/kultur/literatur_und_kunst/verkoerpertes_denken_1.1297366.html">「身体化した思考──精神科学の言語とそれにふさわしい努力について」</a>、「新チューリッヒ新聞」所収）として読むことができる。それによれば、数式が自然科学者の思考にとって必要不可欠なものであるように、人文学者にとっては言語がそうなのであり、言語こそは人文学者の思考を体現している。もとよりそこには差異もある。「学術的な散文は、それによってすべてが無償で何でも言えてしまうような、自己充足的な単語のストックへの入場券ではない。言語には抵抗や不確かさ、一時性が眼に見える状態で残るに違いない──そして、こうした性質の存在しない数学ないし化学の公式と言語とを分かつものはそれなのだ。」<br /><br />ハグナー氏によれば、英語が支配する環境から逃れられると思い込む者はみずから自分を閉じ込める繭を紡いでいるようなものである。それは確かだとしても、そして、（脳の組織構造からして、われわれの誰もが二言語をともに、必要十分な思考の道具とできるほど、使いこなせるようになるとは思えないが）英語を母語としない者の英語力が遜色なく高まってゆくとしても、そこに待ち受けている危険は、絶対化された単言語主義による過度の専門化ではないか（英語の文献しか引用しない論文がその例である）。それは異なる言語の思考様式と学術文化への無関心である。現実世界への拡がりや思想的な寛大さの喪失を埋め合わせるのは、日増しに徹底したものになってゆく細部や微妙な違いへの惑溺である（蛇足ながら、前の週のヴァールブルクのワークショップを思い出した）。「もはや大きな池で釣りの出来ない者は小さな池ですべてを釣らねばならない。そうやって選別と排除のわざを修得するのである。」<br /><br />ハグナー氏のこうした主張にもまた、まったく異論はない。とくに受賞挨拶でフロイトの散文に触れ、そのテクストが言語における思考の生成を記録している、という指摘、そうした「言語において生起する出来事としての思考」を紡ぐことの重要性は、実は多言語の狭間で思考すること、いやむしろ、新たな言語を生じさせることという、ヴァイゲル氏の発表について上述した論点に関わっていると思う。ただ、ハグナー氏も前提としているように、学術言語を取り巻く地政学的状況は厳然として存在しており、その事実との折り合いをどうつけるか、という問題は、これで解決されるわけではない。<br /><br /><br />Hans Ulrich Gumbrecht (Stanford): Wie deutsch waren die Geisteswissenschaften -
und sollten sie sein?<br />
<br />
Podiumsdiskussion<br />
Michael Jeismann im Gespräch mit<br />Andreas Beyer (Paris), Hans Ulrich Gumbrecht
(Stanford), Jürgen Trabant (Berlin/Bremen), Sigrid Weigel (ZfL)<br />
<br />ロマンス語系文学研究者のグンブレヒト教授の講演タイトルは「精神諸科学はどれほどドイツ的であったか──そして、そうあるべきか」。ヴァイゲル氏などを交えたディスカッションがあとに続いた。<br /><br />グンブレヒト氏も19世紀以来のドイツ精神科学の歴史を回顧することから始める。そこで問われるのはこの精神科学のアイデンティティとスタイルである。18世紀から19世紀前半にかけて、文学の分野で起きていたことは、「精神科学」という言葉が誕生以前の（avant la lettre）精神科学的営みだったとグンブレヒト氏は言う。精神科学誕生までに19世紀に形成された知的プラクシスの形態には三つあり、ひとつは文献学、２つ目は哲学、３つ目は歴史である。このあと、文学研究者らしく、社会的プラクシスとしての文学享受のされ方についていろいろ話の展開はあったのだが省略して、ただ一点触れると、英国にもマシュー・アーノルドのような文芸批評家はいたが、ドイツの文学研究が特徴的なのは哲学への近さであったという。<br /><br />ディルタイを中心として、「精神科学」の自覚的な生成を促したのは自然科学の圧倒的な進歩という衝撃であり、それを補償するものとして「精神科学」が登場する。グンブレヒト氏の講演はとくに20世紀後半におけるそのパラダイムの交代をたどり、1990年代になるとその沈滞＝不況現象が起きたという。もはや新しい理論は現われない。研究者は専門家になる。ここでさっと触れられるだけの言及だが（彼の話はそうした細部が面白く、聞き逃したものも多かったと思う）、ドイツで誇るべきものとして、文化的公共圏の豊かさを支える新聞の文芸欄の存在を指摘していた。<br /><br />さて、講演の終盤でグンブレヒト氏の講演はいくつかのテーゼを列挙してゆく（最初は３つと言ったのに、次第に細分化されて増えていった）。まず第一に、ドイツ語は学術言語としては敗北したという事実。第二に、翻訳不可能な精神科学のドイツ的性格といったものは存在しないこと。ただし、ここでその特徴と見なせる点は次のように挙げられた（一部、メモと記憶が曖昧）。１．深さ（？）、２．反省性、３．哲学との対話（思弁的＝冒険的性格）、４．学術的でなければならぬという要請（ただしその基準ははっきりしない）、５．「上手に書くこと」の要請、６．こうした伝統の支配と同質性、７．社会との緊張関係、８．比較的若い世代に存在する、こうした価値へのノスタルジー。<br /><br />ここでグンブレヒト氏は「ドイツ精神科学の輸出した成果」は何であったかという次のテーゼ（？）に移る。ひとつはフランクフルト学派である。米国のスタンリー・フィッシュなどは、アドルノが手がけたような社会批評は書かない。もうひとつは概念史である。歴史家ラインハルト・コゼレックによる概念史はこの講演で何度も取り上げられ、国際的なその影響の拡がりが指摘されている。ドイツ流のメディア学の影響力はドイツ国内にとどまっており、国際的ではない、というのがグンブレヒト氏による診断だ。その他、音楽学のダールハウス、受容美学のイーザーなどの名が、コゼレックと並ぶかたちで言及された（ベンヤミンやヴァールブルクといった名も当然のものとして挙げられた）。<br /><br />次のテーゼは精神科学の「機能」をめぐるもので、それは社会を先導する「方向付け」に求められた。そのために必要とされるのは、しかし、「沈思（Kontemplation）」である。ドイツ精神科学が国際的な成果を得るために何がなされるべきかという最後のテーゼでグンブレヒト氏は、１．キマイラ的な国際性を目指すのではなく、そのアイデンティティを活かすべきこと、２．フランスなどと比べて豊かな社会的受容層の存在、３．ベルリン文学・文化研究センターのような組織が十年以上も存続していることを誇るべきこと、といった点を指摘した。<br /><br />講演の終わりにグンブレヒト氏が再び触れたのは「沈思（Kontemplation）」である。「研究ではなく沈思」。それこそが精神科学の領域である。沈思とはこの場合、文学や哲学のテクストを慎重に読むことであり、そうした沈思の時間を与えるゼミナールはあらゆる学生にとって必要である。つまり、むしろカレッジ的な教育こそがなされるべきであるというのが、この講演のたどり着いた点と思われた。スタンフォードで長く教え、欧米各国の知的状況を踏まえたうえで、こうした古典的な教養教育への回帰を唱えている点に興味を覚える。<br /><br />続くディスカッションは司会進行がうまく機能せずにやや散漫な展開だったが、ヴァイゲル氏がまず、ベルリン文学・文化研究センターは、ディルタイが直面したような自然科学の勝利に対する対応を、しかし、自然科学対精神科学といった二項対立の彼方へ向けて展開しようとしている点を強調した。問題なのは、解釈学的・歴史的な知の衰頽という非歴史化の傾向である。歴史が孕んでいる複雑性を、純粋に技術的な思考やグローバル・イングリッシュの支配に対して守らねばならない。その複雑性は言語の歴史性である。<br /><br />言語をめぐっては、翻訳不可能性（そのデリダ的「ディフェランス」）を強調するヴァイゲル氏と他の参加者との間で対立があった。グンブレヒト氏は「あらゆる誤読もまた生産的である」と言う。だが、本質的な問題点は共有されていたと思う。途中では、「上手に書くこと」が制度的には必ずしも高く評価されないとか、自然科学とは違って「アブストラクト」は精神科学には無意味だとか、プラトン以外の哲学書の英訳はひどいとか、いろいろ本音めいた発言も出た。外国に作られたドイツの研究所やゲーテ・インスティトゥートなど、外部にドイツの学術成果を広報し、広める組織についても話題になった。<br /><br />ヴァイゲル氏は自分固有の言語内における「ディフェランス」と、異なる思考様式への関心の必要性を改めて説いた。そのうえで、ドイツの精神科学が注目される大きな理由は、「著者たちの魅力」にこそある、と指摘した。「翻訳不可能なもの」がある以上は、翻訳を通した紹介にあたって、原典の翻訳に加えて、さらにそこで用いられている概念の解説が必要であるという。これを受けてグンブレヒト氏は、ギリシア語習得をめぐるみずからのトラウマ的体験も交え、翻訳を使って論じる可能性を主張した（ここですかさず亡くなったキットラー氏がギリシア、ギリシア語に向かった点が指摘されたが）。グンブレヒト氏は最後に、歴史的文書すべての電子化の可能性という、過去（のテクスト）との関係に変容をもたらす技術的変化について触れたが、この論点は展開されずに終わった。<br /><br />グンブレヒト氏には近年のドイツの大学改革を批判し、むしろフンボルト的な大学の理念と実践の伝統に立ち返ることを説いた<a target="_blank" href="http://www.amazon.de/Warum-soll-Geisteswissenschaften-reformieren-Universitatsreden/dp/3899717996">著書</a>もあり（未読）、こちらをいずれ参照して見解を確認しておきたい。それにしても、見るからにエネルギッシュで活動的な彼の口から多く語られた言葉が「沈思（Kontemplation）」であったことは印象的だった。テクストを中心にした孤独な沈思と共同の対話の貴重さ。<br /><br />文化的公共圏の豊かさという点も重要だ。グンブレヒト氏が触れた新聞の文芸欄のほか、統計的根拠はないが、そもそも人文学関連の書籍出版について、ドイツは決して停滞してはいないように思われる（書店の数は明らかに減っていると感じるが）。日本の出版業界が壊滅に向かっているという記事<a target="_blank" href="http://d.hatena.ne.jp/OdaMitsuo/20111201/1322665261">（「出版状況クロニクル４３（2011年11月1日～11月30日）」</a>参照）を読むにつけ、この点は大きな差であると感じざるをえない（人文書は最も売れない本の業界であり、危機も深刻ではないか）。日本では人文系雑誌もかなり数を減らした。特定の著者・編者の本や雑誌だけがある種のマーケティングの結果として売れるだけでは意味がない。この点での学術書の生態系を考える必要がある。少部数だからといって、電子書籍やネット上のサイトで十分ということにはならない。書籍というかたちにまとめる過程での、長時間に及ぶ「自己翻訳」の、「遅れ」の、「事後性」の時間こそが貴重なものだからであり、書籍という人類が長い時間をかけて作ってきた情報のパッケージング形態ゆえの長期的な保存性は、まさにその保存性ゆえに時代を隔てても読まれうる可能性を人文知に与えてきたからである。それこそが「沈思」を支えてきたのだ。<br /><br />日本語とドイツ語では人文学、人文知をめぐる状況がまったく異なる。そもそも日本語は明治以来の概念形成の悪戦苦闘を経てもなお、学術言語になりえたのかどうか、確信をもって言える状況にはない。それはつまり、ドイツ精神科学のように「輸出実績」を誇れないからでもある。ヴァイゲル氏が述べたように、原典の翻訳とともに概念の解説を丁寧におこなったうえでの学術成果の発信が求められるのだろう。<br /><br />これは「日本思想」や「東アジア思想」の古典（古代から近代までの）についてのみ適応されることではない。今現在の日本語における思考もまた、同じ翻訳を経なければならない。ありていに言って、ヴァイゲル氏の言う「著者たちの魅力」の「著者」もまた、ベンヤミンやヴァールブルクであり、すでに数十年前に死んだ人々である。しかし、当然ながら、ドイツ精神科学の未来は、この現代において生きている著者たちのテクストの魅惑にこそかかっているはずであろう。とすれば、日本語においてもまた、事情は同じである。現象としての日本文化の商品価値にもたれかかった「思想」ではない、魅力あるテクストとしての日本語による思想が媒介され伝達されなければならない。<br /><br />グンブレヒト氏がドイツ精神科学の特徴として挙げた点のいくつかは、日本の人文学者もまた共有しているように思われた（自分がドイツ精神科学に近いところで自己形成したという事実を割り引いても）。例えば、哲学との対話（思弁的＝冒険的性格）、学術的でなければならぬという要請（ただしその基準ははっきりしない）、「上手に書くこと」の要請、こうした伝統の支配と同質性、社会との緊張関係、そして、こうした価値へのノスタルジーである。では、今後はどう進めばよいのか。グンブレヒト氏の最後の指摘にあったように、キマイラ的な国際性は避けねばならないとして、日本の人文学にとって、拠るべきアイデンティティは必ずしもはっきりしない。ベルリン文学・文化研究センターのような組織を長期持続させてきたドイツの研究教育政策に匹敵するヴィジョンは日本の政府にはなかった（COEの場合に見られるように、せいぜいが５年単位で、あとは関係者個人の尽力による）。<br /><br />組織・制度論はここでは措く。官僚機構の無策をまた嘆いても始まらないこともあるが、政策的枠内でのベストを目指すことはひとつの罠でもあるからだ（シニカルな距離を維持したとしても、そこに取り込まれている以上は制度的には奉仕しているに等しい）。今回の会議を聞いていて思ったのは、こうした問題が、律儀に公論として語られることの貴重さである。さらに極端なことを言えば、あらゆる既存の枠組み（大学の国際競争力とか、資金的な裏づけとか、国際学会のしきたりとか、すべてのレベルのフレーム）に逆らって、思弁的＝冒険的に、社会との緊張ある関係を人文学は追求すべきなのではないか。いったん徹底した「沈思」と、沈思における対話にこそ、向かうべきではないか。<br /><br />こうしたことをあえて書くのも、日本社会の実情、大学の制度的実態を知って、冷静な状況判断をしようとすればするほど、学者の発想がひたすら官僚化する傾向にあることを感じるからである。「なるほど頭では人文学はこうあるべきだとわかっている、（しかし、実際にはこうするのが制度的にはベストだ）」という分裂した意識（一種のフェティシズム）で学者的良心は維持されているが、実態としては人文学の内実は空虚になるばかりだ。<br /><br />ともあれ、「研究ではなく沈思」というグンブレヒト氏のスローガンは記憶に深く刻まれた（思えば「じっくり／あとで考える（nachDenken）」もまた沈思の意味であった。）。翻訳不可能性と誤読の生産性をめぐる対話も大きなヒントになった。日本語という周縁的な、いまだ誕生過程にあるのかもしれぬ学術言語は、翻訳不可能性と誤読の間を彷徨しながら、他言語との格闘を通じて、絶えず自己翻訳による生成を演じなければならぬのかもしれない。ここに書き綴ったものもまた、翻訳過程のただなかでほとんど失語して沈思を強いられた結果の、途中経過的な産物である。当然ながら誤読も多いだろうが、その点はここから生み出されるかもしれぬ思考によって贖おう。テクストへの沈潜と沈潜しうるようなテクストを書くこと──恐ろしく単純だが、最も困難で危険な営みが待っている。<br />]]>
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    <title>都市を占う</title>
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    <published>2011-12-02T14:58:00Z</published>
    <updated>2011-12-02T15:27:15Z</updated>

    <summary>高梨豊さんの写真集に解説を書きました。書誌情報は田中純「都市を占う」、高梨豊『I...</summary>
    <author>
        <name>田中純</name>
        
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        <category term="Essays" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://before-and-afterimages.jp/news2009/">
        <![CDATA[高梨豊さんの写真集に解説を書きました。<br />書誌情報は<br />田中純「都市を占う」、高梨豊『IN'』、新宿書房、2011年、138〜141頁。<br /><a target="_blank" href="http://u-tokyo.academia.edu/JunTanaka/Papers/1189863/Fortune-telling_for_Urban_Cities">Jun Tanaka, <i>Fortune-telling for Urban Cities</i>. In: Yutaka Takanashi, IN'. Tokyo: Shinjuku Shobo, 2011, pp.142-144.</a><br /><br /> ]]>
        
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    <title>国際ワークショップ「ヴァールブルク研究の新しい展望」</title>
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    <published>2011-12-02T10:31:51Z</published>
    <updated>2011-12-02T15:23:04Z</updated>

    <summary>Internationaler Workshop: Neue Perspekti...</summary>
    <author>
        <name>田中純</name>
        
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        <category term="Memorandum" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://before-and-afterimages.jp/news2009/">
        <![CDATA[<a target="_blank" href="http://www.zfl-berlin.org/veranstaltungen-detail/items/neue-perspektiven-der-warburg-forschung.html">Internationaler Workshop: Neue Perspektiven der Warburg-Forschung</a><br />「ベルリン文学・文化研究センター（Zentrum für Literatur- und Kulturforschung Berlin）」主催のワークショップ。2011年１１月25〜26日。<br />中心になっているMartin Treml氏は所長のSigrid Weigel女史とともにズーアカンプ社から一巻本のヴァールブルク著作アンソロジーを編纂・刊行している。<br />]]>
        <![CDATA[以下、備忘のためのメモとして。<br /><br />11月25日<br />Treml氏はヴァールブルク研究における「文献学的転回」をメルクマールとして挙げていた。その言葉通り、ロンドンのヴァールブルク研究所にあるアーカイヴ資料の文献学的研究が中心。英語を基本言語とする会議。<br /><br />Andrea Pinotti (Mailand): "Stilbildende Macht". Aby Warburg and the <em>Einfühlung</em>-theories<br />イタリアでヴァールブルクほか、ドイツ美学の研究を精力的に発表している研究者。「感情移入」の概念史とヴァールブルクにおける用法の追跡。<br />感情移入はそもそも自他の区別を前提にしているので、ヴァールブルクの言う「思考空間」といった距離に関連する。しかし、象徴やイメージの受容においては、それが無になる可能性もあるだろう。<br /><br />Sigrid Weigel (ZfL): Studying, deferral, return. Warburg reads Darwin<br />ダー
ウィンの著作を1888年に購入していながら、ヴァールブルクがそれを熟読したのは1924年だったことが書物への書き込みからわかるという。回顧的な発
見（フロイト的なスキーム）。「ムネモシュネ」の序文などで語られる理論は明らかに普遍的文化史、文化理論を自然科学をモデルに志向しているという主張
（自然科学の圧倒的な成果に直面した、1900年前後の人文学の支配的傾向）。印象的なのはそのときに「アトラス（のパネル）そのものは違う」とその都度
付け加えていたこと。ズーアカンプの一巻本解説でも強調されていたが、ヴァールブルクは物理学の「最小作用の原理」の発想に依拠していたらしい。<br /><br />文献学（すなわち言語）に依拠するミクロロジーは理論へのヴァールブルクの（ほとんど生涯にわたる）固着を見出す。しかし、「アトラスは違う」とすれば、イメージの運動はどう語ることができるのか。<br /><br />ディディ＝ユベルマン氏がそこに触れてコメントし、ヴァールブルクのボッティチェリ論文を支配している液状性（水や風の流動性？）のイメージを指摘していた（要するにベンヤミン的「根源」）。ヴァイゲル女史は「その点は自分の印象はまったく違う」と平行線。<br /><br />Spiros Papapetros (Princeton): Schmuck "als Umfangsbestimmung". Warburg, Semper, and cosmic adornment<br />ヴァールブルクがゼンパーの装飾論をどう読んだかというアーカイヴ資料に基づく研究。orientationとornamentationの関係をめぐり、ゼンパーが身体装飾に「方向指示」の機能を認めていた点が面白い（方位装飾 Richtungsschmuck）。<br /><br />Philipp Ekardt (FU Berlin): "To wrap oneself in a silhouette". Warburg on dress and fashion<br />ヴァールブルクがalla antica, alla franceseといった言葉で形容する服飾装飾についての議論なのだが、要するに？<br /><br />米国で学位をとって教えている人たちなので話すスピードが早く、制止も入った。消化不良。<br /><br />20.00 Keynote<br />Georges Didi-Huberman (EHESS Paris): Au pas leger de la servante. Savoir des images, savoir excentrique<br />ド
イツ語の翻訳が配られた。基本的に今までの彼のヴァールブルク論を要約した内容。ヴァールブルクの細部をギンズブルグ的な事実の証拠としてではなく「症
候」としてとらえるべきことなど。今はヴァールブルクにおける「Wanderung（彷徨）」の概念に注目しているとのこと。<br />言語と概念をめぐるミクロロジックな話ばかりだったので、大づかみながらヴァールブルクの思考の運動を見せてくれる講演には救われた。朗らかに楽しそうに話していたことも一因か。<br />質
疑で、ピノッティ氏から「象徴」「症候」「寓意」といった概念の厳密な規定を求められたとき、僕には概念の「使用価値」が問題なので、ここで規定を与えた
くはないと答える。そもそも「文献学的転回」という趣旨なのに、さらに朗らかに「僕は文献学には関心がない」と言ってしまう。それはそうだろう。「症候」
という「確定できないもの」に向かっているのだから。「僕は概念のコンスタレーションを作っている」という解説。<br />「僕は喜び＝楽しみとともに
ヴァールブルクを使い、精神分析の言説を使い、症候という概念を使う（＝これらを使うのは楽しいからだ）」と、堂々と「使用価値」を語ってしまう朗らか
さ。「悦ばしき知」か。ニーチェと同様、ヴァールブルクの思考体系も整合的な再構築はできないとも言っていた。会議の趣旨である「新しい展望」が否定され
るような発言なのだけれど、これがキーノート。<br />
<p>&nbsp;</p>
<p>11月26日<br />10.30-12.00<br />Thomas Hensel (Siegen): Von der "Animosität des Objekts". Warburgs Mobilia<br />こ
の人だけ、なぜかドイツ語。ヴァールブルクを「イメージの歴史家」ではなく「ものの歴史家」として見るメディア論的視点。彼の仕事机に注目する。1910
年代の「How to systematize your desk 
work」といった実用書が参照対象。Heiseの回想録には、ヴァールブルクは机の上の事物の配置に異常に神経質になっていたというから、病的な物神崇
拝がそこにはあっただろう。仕事机上の水平の配置を回転させれば「ムネモシュネ」におけるパネル上の図像配置となる。<br /></p><p>Julia Voss (Berlin/Frankfurt): The iconography of the series. Warburg's Mnemosyne-Atlas and his method<br />ダー
ウィンの進化論研究における図像利用について著作を書いている人。アカデミズムではなく新聞の文芸欄担当。ダーウィン、ヘッケル、John Evans 
(<i>The Coins of the Ancient Britons</i>における遺物のシークエンス)、レオ・フロベニウスなどの図版を示して、serialな図像利用がヴァールブルクのムネモシュネと共通し
ていること、その背後にある類似性による併置の原理について言及。他方で、ムネモシュネの序文を引いて、人間の「原経験」などといった発想に一種の本質主
義を見て、それが一部の美術史家や脳科学者による芸術の本質主義的な把握に通底していると指摘。そこから、類似性のみに基づいて、例えばカラヴァッジョと
戦争写真を併置するような展覧会の流行を「ムネモシュネ」の悪しき普遍化として批判。要するにムネモシュネの受容に問題あり、と。「美術史家は図像間の関
係の根拠を示すべきだ」というもっともな話。後半の主張こそが言いたいことだったのでは？　しかし、この批判の延長線上にはディディ＝ユベルマン氏のアト
ラス展もあることになるだろう。</p><p>質疑では、ディディ＝ユベルマン氏がムネモシュネのあるパネルの図像を例に、「類似しているというけれど、
形態が類似しているだけで、時代も地域も意味もまったく違う図像で似てはいない」という、批判になっているのかいないのかよくわからない指摘とそもそも
ヴァールブルクのムネモシュネは他の例のように整理されたシリーズにはなっていないという主張。Wedepohl女史からは「ムネモシュネのどこがシリー
ズなのかはっきり示してほしい」という厳しい一言。</p><p>類似による結合を通じて、美術史研究に一種の「イメージの生気論」が生まれている、とい
う観察もあった。イメージを主体と見なす視点の流行（ミッチェルの「イメージの欲望」やブレーデカンプの？Bildakt理論）。物理学における
Agencyの理論が参照対象として挙げられた。</p><p>ゲーテの影響についての指摘（ピノッティ氏）があったが、ヴァールブルクが「原経験
（Urerlebnis）」と言うときのUr-は文脈に即せば歴史的起源の意味合い。重要だったのは、情念定型において、例えばUr-Ninfaはいな
い、というヴァイゲル女史の指摘。それはオリジナルに対するコピーではなく、無数の差異の系列というわけだ──「これはニンフではない」。彼女はさらに、
ヴァールブルクの内部における分裂として、系譜学的モデルと分類学的モデルの対立も指摘。ディドロにこの二つの思考様式をめぐる言及あり？</p><p>Voss女史が批判するような傾向は去年東京でイブ＝アラン・ボワ氏も指摘していた（→<a target="_blank" href="http://before-and-afterimages.jp/news2009/2010/10/post-106.html">この記事</a>参照）。<br /></p><p><br />13.30-15.00<br />Claudia
 Wedepohl (Warburg Institute London): "A reaction against the formalist 
or stylistic approach". Aby Warburg and Bernard Berenson<br /><br />Herbert Kopp-Oberstebrink (ZfL): Am Schnittpunkt von Kulturwissenschaften und Kulturphilosophie. Aby Warburg und Ernst Cassirer</p><p>聞かず。<br /></p><p><br />15.30<br />Davide Stimilli (Boulder): Warburg on sacrifice<br />犠牲（Opfer）をめぐるヴァールブルクの執筆プランについて。ムネモシュネのパネル55に用いられた図版の血を流すキリストと背景の異教祭儀のコントラストなど。<br /></p><p><br />Martin Treml (ZfL): Signorelli in Warburg and Freud<br />
フロイトの「シニョレリ」（例の抑圧による忘却の図式にはボッティチェリも登場する）から出発し、1900年代にはシニョレリの流行があったという話（セ
ザンヌやベックマンも）。ムネモシュネの途中のパネル写真で「シニョレリ・パネル」が４枚あり、その一枚（パネル27）の写真を示した。ヴァールブルクは
オルヴィエトには何度も行っており、シニョレリは非常に重要な存在だった（だから？）。本筋とは別に、アーカイヴ資料をたどると、ヴァールブルクは神々の
なかでも「パン」に関心を寄せていたことがわかるという。<br /><br />質疑では、ハンブルクからロンドンに研究所が移ったことで、ヴァールブルクのキ
リスト教化が起こったという指摘（スティミリ氏）。ザクスルの関与を想定。Pagan Sacrifice（ザクスル）よりもPagan 
Mysteries（エドガー・ウィント）のほうがヴァールブルクには近い。<br /><br />スティミリ氏はムネモシュネがシリーズだとしても、その順序は確
定的ではないという指摘。いわば、もう一度アトラスを構成することが必要。アトラスはそれ自体がメディアである（Hensel）という見方に対しては、仕
事机と同じく道具でもある（Weigel）という指摘あり。<br /><br /><br />全体として、ヴァールブルクのアーカイヴ研究の現状に触れ、1990
年代終わりからの激変ぶりを改めて知る。十数年前は思えば長閑なものだった。知的生産活動の面では盛況化して結構なことだけれど、アーカイヴという「遺
産」をめぐって産業化する過程それ自体が孕む問題もあるように思う。ディディ＝ユベルマン氏の講演は今までの所論を要約した部分が多かったものの、一貫し
て「差異」と「裂け目」をもたらす（この言い方にすでに矛盾があることは承知のうえで）思想家像を提示するものだった。今にして思えば、場と状況を意識し
たパフォーマンスもあったかもしれない。ディディ＝ユベルマン氏自身はあまりに華麗な雄弁家でありすぎるにしても、「表現」の問題には敏感で（ここで言う
「表現」とは思考が動いている事態であり、同時に、他者の思考を動かすような潜勢力である）、そこに息をつく自由な空間を自分は感じたように思った。文献
学的に発見された、それ自体は価値のある細部が、しかし、量的に増殖するばかりで窒息しそうな濃密な空間で。</p><p>ディディ＝ユベルマン氏が、
デューラーの《メレンコリアI》をめぐるパノフスキーのイコノロジーによる解釈は「知的になった気にさせてくれます」と言ったことが妙に記憶に残る（その主張の当否はここでは問わない）。「知的になった気にさせる」言説のみにとどまっていていいのか、という問題。 
彼としては、人を不安にさせなくていいのか（「症候」にならなくていいのか）、と続けたいところなのだろう。いずれにしても、この点こそが「表現」に関わる。<br /></p> ]]>
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    <title>『建築のエロティシズム』書評（井上章一さん）</title>
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    <published>2011-11-09T12:22:19Z</published>
    <updated>2011-11-09T12:51:14Z</updated>

    <summary>日本経済新聞夕刊（11月９日）で井上章一さんに書評していただきました。平凡社の方...</summary>
    <author>
        <name>田中純</name>
        
    </author>
    
        <category term="Essays" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
    <content type="html" xml:lang="ja" xml:base="http://before-and-afterimages.jp/news2009/">
        <![CDATA[日本経済新聞夕刊（11月９日）で井上章一さんに書評していただきました。<br />平凡社の方が公開なさっている<a target="_blank" href="http://twitpic.com/7ccii4">書評の画像</a>です。<br /><br />最後の一文、正確に意図を汲み取ってくださっている。拙著で問題にしたのは世紀転換期ヴィーンの「スタイル」──生と性、倫理と芸術を横断する──だったのだから、とくにロース／クラウスのスタイル＝文体をどこかで意識していた。新書という雑誌に近い形式でなければ、そうはしなかったかもしれない。<br /><br />その文体の特徴とは、ロースの創刊した雑誌名で言えば「他者（別のもの）」、つまり、異質性。ロースは「オーストリアへの西洋文化の導入のため」と言った。異質性をそれと知るためにはコンテクストの知識が必要だ。そもそも思想史は多領域の関係性をメタレベルで考察するものなのだから、そのために前提とされるコンテクストの理解も多重化する。しかし、いくつかの峰を越えて山を登った果てに見える風景──その地形──にこそ、思想史の醍醐味もまたあるというものだろう。<br /> ]]>
        
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    <title>「トポフィリ」展について（『教養学部報』記事）</title>
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    <published>2011-11-09T10:05:23Z</published>
    <updated>2011-11-09T10:28:38Z</updated>

    <summary>『教養学部報』にトポフィリ展についての文章を寄稿しました。書誌情報は田中純「秘密...</summary>
    <author>
        <name>田中純</name>
        
    </author>
    
        <category term="Essays" scheme="http://www.sixapart.com/ns/types#category" />
    
    
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        <![CDATA[『教養学部報』にトポフィリ展についての文章を寄稿しました。書誌情報は<br />田中純「秘密の小部屋──「トポフィリ──夢想の空間」展をめぐって」、『教養学部報』第542号、東京大学教養学部、2011年11月2日、2頁。<br /><br /><a target="_blank" href="http://www.c.u-tokyo.ac.jp/gakunai/gakubuhou/index.html">『教養学部報』のサイト</a>にいずれ掲載されますが、読む手段が当面かなり限定されるため、ここに掲げておきます。<br /><br /><span class="mt-enclosure mt-enclosure-file" style="display: inline;"><a href="http://before-and-afterimages.jp/news2009/gakubuhoTanaka.pdf">「秘密の小部屋──「トポフィリ──夢想の空間」展をめぐって」</a></span><br /><br /> <div>なお、本文中で言及されている、カタログ内容の一部についてのネット上での公開はすでに実現されています。→<a target="_blank" href="http://d.hatena.ne.jp/bachelard2011/20111013/1318510373">「トポフィリ──夢想の空間」サイト</a><br /></div>]]>
        
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    <title>『建築のエロティシズム』「あとがき」部分</title>
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    <published>2011-11-01T21:13:48Z</published>
    <updated>2011-11-01T21:20:35Z</updated>

    <summary>　本書の内容をひと言で表わせば、一九〇〇年前後のヴィーンを中心とした領域横断的な...</summary>
    <author>
        <name>田中純</name>
        
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        <![CDATA[　本書の内容をひと言で表わせば、一九〇〇年前後のヴィーンを中心とした領域横断的な思想史ということになろうか。その目的は、この時代が取り憑かれていた「装飾」の文化的意味の解明によって、世紀転換期のヴィーン文化が今なお放つ魅惑の秘密を明らかにすることにある。「エロティシズム」と呼んだのは、そんな魅惑の源としての論理の官能性にほかならない。<br /><br />　「論理の官能性」という言葉はいささか異様に響くかもしれない。論理のエロティシズム──わたしにそれを最初に教えてくれたのは、本書の登場人物のひとりであるヴィトゲンシュタインの『論理哲学論考』だった。十歳代の終わりに夢中になって読み耽った書物である。この『論考（トラクタートゥス）』のような本を書くことを切望し、こんな本を書きえた天才に嫉妬した。文系だったわたしが理系に転向することを考え、数学や建築に進むことを志望したきっかけも、この書物との遭遇にあったように思う。結局は人文学の道に舞い戻ったとはいえ、『論考』への畏怖に似た思いは失われていない。<br /><br />　『論考』に官能性を感じてしまうなど、ヴィトゲンシュタイン自身にとってははなはだ心外なことかもしれぬ。だがそれは、彼がヴィーンという「装飾の都」の徹底した批判者だったからこそ、逆に帯びることになった時代性の刻印である。その意味では、彼もまた装飾の影のもとにあった。<br /><br />　本書でわたしは、ヴィトゲンシュタインをはじめとする反逆者たちまで含めたヴィーン文化を駆動していたひとつの論理を、できる限り鮮明に浮かび上がらせることに、ひたすら専念したつもりである。この時空間における「装飾の運命」の追跡を通して、少なくとも時代の核と見なしうるような文化現象の精髄については、ここで凝縮して示しえたのではないかと自負している。本書で取り上げたアドルフ・ロースの建築のように、新書という一律で目立たぬ外見ながら、内部では各章が重層的に関連し合って豊かな、不思議な小函にも似た書物になっていてくれればと願う。<br /><br />　本書に三度も登場するロースについては、とりわけ近年再評価の気運が高い。ロースの著作の新訳も準備されていると聞く（編集出版組織体・アセテートから、アドルフ・ロース著作集１『虚空に吼える』が近刊予定とのこと）。劃期的なロース論を含むマッシモ・カッチャーリのヴィーン文化論『シュタインホーフから』（「世紀転換期のウィーン」として部分訳あり）の邦訳刊行も俟たれる。こうした書物を通じて、ロースが生きた時代の重要性がよりいっそう理解されることを期待するとともに、本書もまた、そうした認識の深化に寄与するところがあれば幸いだ。]]>
        
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