グンブレヒト氏の著作を取り寄せるついでに買った彼の編著『潜在性──精神科学における盲目の旅客たち』(ドイツ語原書)という本を斜め読み。第2次世界大戦後のドイツ史を「潜伏期(Latenzzeit)」ととらえる視点に触発されて編まれたものとのこと。多くはグンブレヒト氏と同世代の、日本では団塊の世代の執筆陣で、ロジェ・シャルティエ、ペーター・スローターダイク、ホルスト・ブレーデカンプなども。
だから、ある種の世代経験、時代経験を背景としつつ、「潜在性・潜伏性(Latenz)」をキーワードに、哲学、文学研究、歴史、美術史まで、幅広い論考を集めたもの。19篇の論考が「解釈学」「詩学」「系譜学」「存在論」の4つに分類されている。
だから、ある種の世代経験、時代経験を背景としつつ、「潜在性・潜伏性(Latenz)」をキーワードに、哲学、文学研究、歴史、美術史まで、幅広い論考を集めたもの。19篇の論考が「解釈学」「詩学」「系譜学」「存在論」の4つに分類されている。
「盲目の旅客たち」という比喩はオランダの歴史理論家Eelco
Runiaの言い方で、潜在性の核心には、現実的な知覚の領域には入ってこず、その位置する場所も同一性も知ることのない、ある物体や物質的対象の空間的
な近さに関する確信があるのだという。それをクルージングの船に乗った、目の見えない乗客に譬えている(盲目でも自分の居場所を感知するといったこと
か?)。「潜伏しているものとは、先行する現在からは消え失せ、しかしまた、一度として知覚可能ではなかったものかもしれない。」このLatenzに英語
で対応する概念が「presence」とされていることを奇異に感じたが、「presence」には「霊気; 幽霊, 妖怪,
物の怪」の意があるのだった。
「潜在性」に関連するのは「気分(Stimmung)」である。予感としての気分が潜在性への確信を生む。グンブレヒト氏は この「気分」についても最近一書を著わしている。この問題設定がハイデガーの哲学に関連することは言うまでもないし、参照もされるが、必ずしもそこから出 発しているわけではない。とはいえ、可能性と現実、彼方と此処、意味するものと意味されるもの、見かけと真実、透明と不透明といった、ハイデガーであれば 「形而上学的」と呼ぶであろう対立を横断してしまう潜在性というテーマの存在論的アンビヴァレンツが、この哲学者が言うとおり、認識論的な「震撼」をもた らすことをグンブレヒト氏は認めている。
彼はさらに、潜在性への関心の由来を、哲学史的に類比を探せば、フィヒテの観念論に対するシェリングにおける「自然」への関心に対応するような、この20 年ほどのあいだに生じた「移動」としてとらえている。そこに作用しているのは時間経験の変化だ。もはや現在はわれわれの背後に消え去ってゆくものとは考え られておらず、過去の物質的・非物質的残滓が溢れかえるようにしてとどまっている。過去の個人的・集合的記憶は空虚で茫漠としているのに、電子的保存技術 によって、過去そのものは歴然と残り続けている。同時に未来はもはや可能性の地平ではなく、われわれのもとに迫り来る脅威の連鎖として経験されている。 「こう言うことができよう。われわれにとっての現在とは、自分で選んだ未来へと突入するのではなく、未来の到来をそこで待っているような、潜在性なのであ る。」
グンブレヒト氏はこうした時間把握を、第2次世界大戦後における「時間の停滞」の経験と関連づける視点を導入する。つまり、今日の潜在性というテーマがも つ吸引力の直接の前提は、20世紀半ばにおける気分としての潜在性ではないか。言い方を逆にすれば、存在論的曖昧さの現在的状況としての潜在性は20世紀 半ばにおける歴史的気分としての潜在性に遡るのではないか、ということである。そして、論文著者の多くはこの歴史的時期に誕生している。
グンブレヒト氏のこうした導入を読んで連想したのは、『都市の詩学』で中井久夫氏の概念を使って分析した、都市経験における「予感」「余韻」「徴候」「痕 跡」の諸相だった。とくにグンブレヒト氏らよりも一世代年齢は上だが、イタリアにおける戦後経験──破壊された都市の経験──を根底にもつ建築家アルド・ ロッシが、「Latenzの建築家」として思い浮かんだ。ロッシの建築に特徴的な「静止した時間」の様態は、グンブレヒト氏が記述する時間経験、「時間の 停滞」に通底しているのではなかろうか。『都市の詩学』を出発点に「徴候的知」の系譜をたどることを研究上のひとつのテーマにしてきたが、「徴候」は「潜 在性」と密接に関連している。とすると、グンブレヒト氏が取り組んでいる「潜在性」と「気分」という主題は、中井氏のスキームで解釈し直し、整理すること ができるのではなかろうか。徴候的知のひとつの典型は「細部」に神を見たヴァールブルクだが、本書でブレーデカンプ氏が展開する「像行為 (Bildakt)」理論で最後にヴァールブルクが言及されていることも示唆的である。
個別の論考には十分眼を通していない。グンブレヒト氏の着眼点を大きく発展させたものはなく、全体として論点がやや拡散しているようにも思う。ただ、ハン ス・ブルーメンベルクにおける「空想の図書館」という着想をめぐる記述は刺激的だった。発端は『コペルニクス的世界の創世』に付された小さな註における 「空想の図書館」の歴史に関する記述である。ブルーメンベルクはさらにまた、カントと同時代の科学者ヨハン・ハインリッヒ・ランベルトによる奇抜な提案を 見つける。それは実在しないが存在しうるかもしれないような本の図書館を作るというものだ。ランベルトによれば、このような「あるかもしれぬ」可能態の書物は学 問において、現実に存在する書物と同じ機能を果たしうる。現実の書物の大半が読まれないままになっているという事実を鑑みれば。現実の書物が読まれずにい ることは、可能態の書物が現実の書物と同等の機能を持ちえたことと等価である。つまり、どんなに真剣な学術的研究にも非現実性が隠されている。現実の書物 が読まれないという事実が、それらを可能態の書物の等価物に変えるのである。
「現実の書物の大半が読まれないままになっているという事実」の指摘には、個人的な感慨もあって苦笑せざるをえないものの、「空想の図書館」という発想がもつ 魅惑の一端に、この奇想は確かに触れているように思われた。しかしこれは、どんな書物にも別の書物が潜在しているという事態を意味するものでもあるのではなかろうか。さ らに進んで言えば、書物とはつねに潜在性である。予感であり余韻である。あるいは痕跡であり徴候である。それが現実にどのようなものになるかを誰も予言できない。
書物がいかに「読まれない」ものかという現実に、ほとんど打ちひしがれるような思いを感じていただけに、「空想の図書館」の幻想が逆に強固な現実性を帯び て感じられた。そして、自分が書物を書くにあたってつねに「同時代のためにだけ書くのではない」と念じ続けてきた理由もまた、この潜在性に宿るように思わ れた。「読まれない」書物を書く悲哀とともに、それがまさに「読まれない」、その部分においてこそ宿す潜在性を信じたい──盲目の旅客のように。
「潜在性」に関連するのは「気分(Stimmung)」である。予感としての気分が潜在性への確信を生む。グンブレヒト氏は この「気分」についても最近一書を著わしている。この問題設定がハイデガーの哲学に関連することは言うまでもないし、参照もされるが、必ずしもそこから出 発しているわけではない。とはいえ、可能性と現実、彼方と此処、意味するものと意味されるもの、見かけと真実、透明と不透明といった、ハイデガーであれば 「形而上学的」と呼ぶであろう対立を横断してしまう潜在性というテーマの存在論的アンビヴァレンツが、この哲学者が言うとおり、認識論的な「震撼」をもた らすことをグンブレヒト氏は認めている。
彼はさらに、潜在性への関心の由来を、哲学史的に類比を探せば、フィヒテの観念論に対するシェリングにおける「自然」への関心に対応するような、この20 年ほどのあいだに生じた「移動」としてとらえている。そこに作用しているのは時間経験の変化だ。もはや現在はわれわれの背後に消え去ってゆくものとは考え られておらず、過去の物質的・非物質的残滓が溢れかえるようにしてとどまっている。過去の個人的・集合的記憶は空虚で茫漠としているのに、電子的保存技術 によって、過去そのものは歴然と残り続けている。同時に未来はもはや可能性の地平ではなく、われわれのもとに迫り来る脅威の連鎖として経験されている。 「こう言うことができよう。われわれにとっての現在とは、自分で選んだ未来へと突入するのではなく、未来の到来をそこで待っているような、潜在性なのであ る。」
グンブレヒト氏はこうした時間把握を、第2次世界大戦後における「時間の停滞」の経験と関連づける視点を導入する。つまり、今日の潜在性というテーマがも つ吸引力の直接の前提は、20世紀半ばにおける気分としての潜在性ではないか。言い方を逆にすれば、存在論的曖昧さの現在的状況としての潜在性は20世紀 半ばにおける歴史的気分としての潜在性に遡るのではないか、ということである。そして、論文著者の多くはこの歴史的時期に誕生している。
グンブレヒト氏のこうした導入を読んで連想したのは、『都市の詩学』で中井久夫氏の概念を使って分析した、都市経験における「予感」「余韻」「徴候」「痕 跡」の諸相だった。とくにグンブレヒト氏らよりも一世代年齢は上だが、イタリアにおける戦後経験──破壊された都市の経験──を根底にもつ建築家アルド・ ロッシが、「Latenzの建築家」として思い浮かんだ。ロッシの建築に特徴的な「静止した時間」の様態は、グンブレヒト氏が記述する時間経験、「時間の 停滞」に通底しているのではなかろうか。『都市の詩学』を出発点に「徴候的知」の系譜をたどることを研究上のひとつのテーマにしてきたが、「徴候」は「潜 在性」と密接に関連している。とすると、グンブレヒト氏が取り組んでいる「潜在性」と「気分」という主題は、中井氏のスキームで解釈し直し、整理すること ができるのではなかろうか。徴候的知のひとつの典型は「細部」に神を見たヴァールブルクだが、本書でブレーデカンプ氏が展開する「像行為 (Bildakt)」理論で最後にヴァールブルクが言及されていることも示唆的である。
個別の論考には十分眼を通していない。グンブレヒト氏の着眼点を大きく発展させたものはなく、全体として論点がやや拡散しているようにも思う。ただ、ハン ス・ブルーメンベルクにおける「空想の図書館」という着想をめぐる記述は刺激的だった。発端は『コペルニクス的世界の創世』に付された小さな註における 「空想の図書館」の歴史に関する記述である。ブルーメンベルクはさらにまた、カントと同時代の科学者ヨハン・ハインリッヒ・ランベルトによる奇抜な提案を 見つける。それは実在しないが存在しうるかもしれないような本の図書館を作るというものだ。ランベルトによれば、このような「あるかもしれぬ」可能態の書物は学 問において、現実に存在する書物と同じ機能を果たしうる。現実の書物の大半が読まれないままになっているという事実を鑑みれば。現実の書物が読まれずにい ることは、可能態の書物が現実の書物と同等の機能を持ちえたことと等価である。つまり、どんなに真剣な学術的研究にも非現実性が隠されている。現実の書物 が読まれないという事実が、それらを可能態の書物の等価物に変えるのである。
「現実の書物の大半が読まれないままになっているという事実」の指摘には、個人的な感慨もあって苦笑せざるをえないものの、「空想の図書館」という発想がもつ 魅惑の一端に、この奇想は確かに触れているように思われた。しかしこれは、どんな書物にも別の書物が潜在しているという事態を意味するものでもあるのではなかろうか。さ らに進んで言えば、書物とはつねに潜在性である。予感であり余韻である。あるいは痕跡であり徴候である。それが現実にどのようなものになるかを誰も予言できない。
書物がいかに「読まれない」ものかという現実に、ほとんど打ちひしがれるような思いを感じていただけに、「空想の図書館」の幻想が逆に強固な現実性を帯び て感じられた。そして、自分が書物を書くにあたってつねに「同時代のためにだけ書くのではない」と念じ続けてきた理由もまた、この潜在性に宿るように思わ れた。「読まれない」書物を書く悲哀とともに、それがまさに「読まれない」、その部分においてこそ宿す潜在性を信じたい──盲目の旅客のように。









